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Chapter.9 |
わたしの守るべき森の花。 少女は中庭から摘(つ)んだ白い薔薇を花束にして銀の月の差す回廊を駆け、急の病(やまい)の床(とこ)に就(つ)き、寝室を抜けられぬ王子に会いに来る。 くる日も、くる日も、冬の気配の深まる回廊に幻の如きいのちの輝き振り撒(ま)きながら、少女は王子のもとへ駆けて来る。 もうそんな日々が十日も続いただろうか。 いつもの侍女の代わりに、少女を連れて王子の寝室を訪れたのは、王子の弟キリエだった。 部屋に入ると、キリエは兄に軽く会釈(えしゃく)し、壁の花よろしく炉(ろ)のそばに背を凭(もた)せ、目を閉じた。 どちらかというとキリエのほうが年長に見える。 兄にはどことなく残る少年めいた線の細さは消え、体格はどこから見ても立派な青年のものだ。 いくら成長と老化の遅い彼らと言えど、標準的にはキリエのほうが普通だった。 百年近く年を経れば、じゅうぶん大人の体格になる。 カナンの線の細さは、長年にわたって血を飲むことを最低限にまで忌避(きひ)してきたことによるものだった。 だが……あるいは……だからこそと言うべきか、カナンは理知的な優しさを感じさせる物腰と、研(と)ぎ澄まされた水晶の刃のような危うげな美貌、闇の御神の再来とさえ囁かれる、祈りのちからをもっていた。 彼らの仲はとりたててよいと言うわけではなかったが、険悪(けんあく)と表現するほどは悪くない。 兄は王妃の子で、自分は母も正統な王家の血筋とはいえ愛妾(あいしょう)の子。 加うるに、王座を継ぐにあたってもっとも重要視される祈りのちからは自分を遥かに凌駕(りょうが)するとなれば、キリエにしてみれば争うのも馬鹿馬鹿しいことだったのだ。 兄にしても、もともと権勢欲も特権意識も希薄な性格ゆえに、いたずらに弟を刺激するようなこともなかった。 だが、この日のキリエは声をかけるのも躊躇(ためら)われるような、一触即発の苛立(いらだ)ちを漲(みなぎ)らせて、部屋に入ってきた。 カナンはキリエのようすが気にならないではなかったが、詮索(せんさく)するのはよしておいた。 弟とはいえ、こどもではない。 少女はといえば大人用の椅子に飛び乗り、ただでさえ薄絹のように儚(はかな)げな晧(しろ)い肌が、夜ごと月の細るように青ざめてゆく王子の顔を心配そうに覗(のぞ)き込み、早く良くなりますように、と少女が熱を出したときに王子がしてくれたように額にそっとキスをして、王子の微笑みかけるのを待っていた。 王子は抱き締めてやりたい、と思う気持ちを無理やり抑え、少女の髪を指で梳(す)きながら、他愛ない御伽話(おとぎばなし)を少女に語る。 その思いは愛しさゆえであったとしても、少女を抱き寄せてしまえば、もう身のうちに宿る闇の血を封じておくことはできないという確信が、王子にはあった。 少女の髪に宿るほのかな花の香りと体温ですら、王子を苛(さいな)む。 ぬくもりが欲しい、と王子は思った。 せつないほど脆(もろ)い、ひとのぬくもり。 そう…… ヨナは、必ず、わたしを、許す。 ひとに飢(う)えた、このわたしを。 脅(おび)えることのないよう、そっと抱き寄せて、深い眠りを誘う魔法をかけてやればいい。 苦痛はない。 生きながら贄(にえ)となる恐怖もない。 何故、耐えねばならぬ? 父の言ったとおり、我がものとし、護ればよいのだ。 すこしずつ慈(いつく)しむようにいのちを奪い、ときが来れば我が眷属(けんぞく)とすればよい。 そうすれば、いまよりもっと楽になれる。 そうすれば……飽くほどの永きいのちをふたりでともに歩むこともできる。 違う。 なにもかも間違っている。 なにも……かも。 目眩がする。 「わたくしには、何故、兄上がそれほどに思い煩(わずら)うのか、それが分かりません。父上の辱(はずかし)めに抗(あらが)いもせず。類い希(まれ)な美形であることはわたくしも認めますが、捜せばそのような娘の代わりなぞ、いくらでもおりましょう」 弟の不機嫌な声に、王子は現実に呼び戻された。 「ヨナの前だ。その話は……あとにしよう」 少女はいつのまにか風のそよぐ窓辺にじっと手をついて外を見つめていたが、王子の低い声にふと、振り返った。 窓からは闇が忍び込んでくる。 少女は不思議なほど闇を恐れなかった。 冬の澄み切った大気の香り。 街の輝き。 湖の波のきらめき。 森のざわめき。 少女は王子の愛するものを愛していた。 「殺してしまえばいいのです。一度、ひと殺しの楽しみを知れば、兄上もいまの痩(や)せ我慢がどれほど愚かしいことか、お解りになられますよ」 キリエは吐き捨てるようにそう言うと、ぞんざいに兄に一礼して部屋を出ていった。 カナンには弟の怒りの理由が理解できた。 キリエには兄のあまりの気弱さ、不甲斐なさが許せないのだ。 雲のうえの存在の如く高みにあるのならばよい。 王位など遠い高みの幻のようなもの。諦めもつく。 だが、それは自分など決して手の届かぬ高みになければならないのだ。 王位を継ぐべき兄は自分よりもずっと神に近しき存在でなければならない。 間違ってもひとのいのちのひとつすら奪えぬような惰弱(だじゃく)な存在であってはいけない。 だれもかれも、わたしに難題を押し付ける。 王子はふと溜め息をつき、脅えたように目を見開く少女に微笑むと、 「なんでもないよ」 と手招いた。 「いつのまにかぼんやりしてしまっていたようだね。さあ、お話の続きをしようか。それとも君の摘んだこの花束で、花冠でもつくってあげようかな」 途端、少女は瞳を輝かせ莞爾(にっこり)と笑うと、花束を持つ王子の腕にとびつくように抱きついた。 「気を……つけないと」 水晶のように硬質な輝きをもつ王子の爪が、少女の頬を掠(かす)めた。 少女の頬にひとしずく、紅い血が浮く。 王子の心臓が喘いだ。 身のうちに潜み牙を研(と)ぐ、飢えた魔獣の咆哮(ほうこう)。 「ヨ……ナ、わたしから、離れて……この……部屋を……」 突然、肩を震わせ冷たい汗を浮かべて苦しみはじめた王子の言葉をどうとらえたか、少女は王子のかたくなに握り締められた手に、そっと自分の温かな手を包みこむように重ねあわせた。 破滅は、すぐそこにある。 王子には、父王の言ったことが痛いほど理解できた。 どうあっても宿業からは逃れられない。 真の安息もない。 だが、だからといってどうしろという? 目眩を誘う蠱惑(こわく)的な紅。 いっそ、このまま…… わたしは、なにを迷っている? 「痛むかい?」 王子は震えの止まらない身体を持て余しながら、渇きに我を忘れそうになる自分を見失うまいと少女に微笑みかけ、血の浮いた頬に唇を押しあてた。 気の遠くなりそうなほど、甘美なそのしずく。 多分、わたしは狂っているのだ、と王子は思った。 七年前、森で理由も分からず、このこどもを腕に抱いていたときから。 否(いな)、一番愛しい者の血が、一番甘く感じられるこの呪わしい種(しゅ)に生まれついたそのときから、わたしは狂っているのだ。 少女の温かな体温が胸に伝わってくる。 王子は少女を見た。 不思議なほど大人びた瞳が彼を見上げていた。 少女の、一瞬の躊躇(ためら)い。 せつなげな微笑み。 そして。 「好きよ」 言葉を紡(つむ)げなかったはずの少女の唇が、王子に囁いた。 「だから、ね。くるしまないで」 ヨナは王子の胸にちいさな身を預けた。 知っているのだ。 自分がなにを求めているのかを。 少女の掠(かす)れた声と、その言葉の意味が王子を苛(さいな)む。 「許してくれるというのか?」 それ以上は言葉にならなかった。 少女は幸せな微笑みを浮かべた。 王子の胸のなかで。 「何故、許す?わたしは……許されるべきではない。君に許されてはいけない!」 『わたしは、あなたを、愛している』 だから……苦しまないで。 ただ、それだけの思い。 ただ、それだけの。 そして、その思いを伝えるために紡がれた、ありえないはずの少女の言葉。 「愛しているよ、ヨナ。この思いにいつわりはない。だが……間違っている。わたしの存在そのものが間違っている。だから……ね、君はわたしを許してはいけなかったんだよ」 王子は少女を抱いた。 自然に纏(まと)められた少女の漆黒の髪が風にそよいで、ふわりと揺れた。 抱き寄せる腕には力を込めてはいけない。 彼女が壊れてしまうから。 できるだけ優しいキスを。 わたしの冷たすぎる唇が、彼女のいのちを奪ってゆくことを彼女が怖がらずに済むように。 「おやすみ」 王子は白い貝殻のような少女の耳にそう囁くと、華奢な首筋をそっと支えるようにして優しく彼女に接吻(くちづ)け、その渇いた唇を少女の真紅の血に染めた。 |
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