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Chapter.3 |
闇の静寂を際立たせる梟(ふくろう)の声。 星の涙の降るが如き水音。 森の夜は、王子の苦悩を静かに包み込む。 まやかしではあったが、魂の安らぎがそこにはあった。 彼の哀しみを嘲笑(わら)う者はそこにはいない。 彼の苦しみを詰(なじ)る者もない。 彼の愚かしさを指さす者も。 彼はひとりを過ごしたいときに訪れる、黒々とした木々を映した泉のほとりで足を止めた。 そこで、城の祈祷塔にておこなうように、すべての平穏を祈る。 天空には穏やかなる青と銀の月を。 大地には豊饒(ほうじょう)を。 海原には凪(な)ぎを。 争いを求め、諍(いさか)うひとびとには平穏を。 みずからのつよき祈りを現実のものとするちからを、彼らの種(しゅ)はもっていた。 だからこそ、彼らは疑うことなく信じる必要があった。 『この祈りはひとを救う、正しきちからである』と。 だが、どうして信じられる? 闇に連なる者として課せられたその祈りは、あまりに欺瞞(ぎまん)に満ちているように王子には思えた。 欺瞞 我々はひとのいのちを奪っている。それは罪だとだれもが認める。 我々はひとを護るために祈る。そのためにはいのちが必要だ。 ……それは、分かる。 ならば多くのひとを護るための犠牲は仕方がない。なにを迷うことがあろう、と皆は言う。 ほんとうにそうだろうか。 それでいいのだろうか。 仕方がないと言う者たちも、犠牲になるのが自分や自分の大切な者たちだったならば同じことを言えるだろうか。 王子の迷いには終わりがない。 泉の底、尽きることなくこんこんと湧く冷水(しみず)にも似て。 * 泉のほとりに、不意に血の香りが満ちた。 動物のものではなかった。ひとの血の香りだった。 こころ掻(か)き乱す甘い香り。 潔癖と罪悪感の狭間に抑えていた渇きが甦る。 彼のうちに虐(しいた)げられ、眠りを余儀なくされた闇の血。 喉が……渇く。 目眩を覚えつつも目を凝(こ)らし、彼は血の匂いが漂いくる方、森の奥を見た。 その視界に青い髪の男が入ってきたとき、彼はすこし動揺した。 突然現れたような気がしたからだった。 初めてその男を目にしたとき、男は王子からほんの十歩あまりの距離にいたが、彼がそんなにひとが近づくまで気がつかないなどということはあり得なかった。 たとえ、ぼんやりともの思いに耽(ふけ)っていたとしても、彼の目は闇をよく見通すことができたし、耳もその国に住むどんな種族よりも遠くの物音を聞きわけることができるのだ。 王子はその男にただならぬ興味を抱いた。 血の香りはその男から漂っていた。 「いずれここにいらっしゃるのは存じ上げておりました。夜の国の王になられる貴き方」 「なにものか」 冷たい青い目だけが実体を持っているかのような、禍(まが)つ気配を持った男は、音も立てず、下草を踏むこともなく、ふわりと王子に歩み寄った。 腕には血糊のついた布切れにくるんで、なにかを大事そうに抱いている。 「わたくしは剣に宿る精霊にして凍夜と申します。この方の守護を司る者にございますが、わたくしのちからは尽きようとしております。わたくしはしばしの時を眠らねばなりません。それゆえ、不躾(ぶしつけ)ながら貴方さまにお願いに参りました」 「剣の精霊……神代の魔天か」 「ご明察にございます。闇の王子、カナン様」 夜に生きるほかの種など、較べものにならぬほど永いいのちをもつ王子の一族ですら伝説にしか聞いたことのないものを目の当たりにして、王子は言葉を失った。 遥かな過去、神々の戦いにおいて相手の神を弑(しい)するためにのみ造られたという、神々の剣。 異能を備えし神の獣。 ちからの弱い精霊とは違い、おのが意志を血肉とし、ひとの姿を取ることもできる。 それが魔天。 つねに神とともにあるべき神の守護精霊。 この王国を創造し、守護すべき闇は倒れ、その妻にして現在を司る時の女神も後を追うように戦(いくさ)に果てた。 闇に与(くみ)した神々はおのおの、その封土に繋がれ閉じ込められている。 勝利した神々にしてもかつての力を失い、滅多にひとの世界に干渉しない。 魔天とは、神々の戦のおりに生みだされし精霊。 言い伝えが、王宮の書庫に残された古い本の記述が、限りなく正しいものである信じる王子でさえ、魔天に会うことがあるなど夢想したこともなかった。 それほどまでに、この世界において神々の存在は希薄だった。 もともと、いなかったのではないかと疑ってみたくなるほどに。 「望みを……言うがいい。場合によっては叶(かな)えよう」 いまだ百歳に満たぬ王子が気丈にもそのように答えたのは、王族の誇りのなせるわざであっただろうか。 ひとたび眼前の魔天の怒りをかえば、王子のちからをもってしてもいのちが危ういことを、彼はすでに察していた。 伝説の記述を鵜呑(うの)みにしたわけではない。 いま、目の前にしている男の存在の危険さを肌で感じたのだ。 たとえその魔天が深き眠りを必要とするほど、ちからを失っていたとしても。 「わたくしがふたたび目覚めるまでのあいだ、この方をお護りいただきたいのです」 男は腕に抱き抱えていたものを王子に差し出した。 重たく血に染まった布切れがほどけたなかに、不安な目をしたふたつか、みっつばかりのこどもがいた。 王子をじっと見上げる夜露に濡れた闇の色をした、その瞳。 だが幼き児(こ)に傷はなく、魔天にはもちろん、目に見える外傷はないとなれば、ひとの血に濡れる布はなんなのか。 王子の疑念はどうやら顔に出たようだった。 王子が問おうとするよりさきに、男が口を開いた。 「我が主(あるじ)は深い傷を負われました。もとの姿をすぐさまに取り戻すのは不可能でした。わずかに残った無傷の部分を統合し、つくりなおして身体を甦らせるよりほかに法をなくしておられたのです」 よくよく見れば血で重たげな布切れは、無残にも切り刻まれた衣服に見えなくもない。 だが王子の興味は、その壮絶な戦いのあったことを思わせる衣服とは別のところに移っていた。 王子と対峙(たいじ)する魔天の声には、どこか総毛立つような、しかし苛烈(かれつ)な自制心によって抑えつけられたなにかが潜(ひそ)んでいたのだ。 「口惜(くちお)しいか。君と契約を交わしたこの主は幸せものだな」 王子は思ったことを正直に口にした。 「魔天は主を守るものにございます」 青い瞳が氷の激しさを湛(たた)えて、王子を見据(みす)えた。 伝説を信じるならば、魔天は神の創造物でありながら、神に比肩(ひけん)し得るちからをもつ。 契約を交わした主には絶対的な忠誠を捧げるが、他の者に対しては傲慢(ごうまん)かつ不遜(ふそん)。 冷酷にして非情。 いかに闇の血を引く王子に対してとはいえ、頭を下げて慈悲を請(こ)うなど、その矜持(きょうじ)に拘(かか)わるはずだ。 だが、主人を護るために眼前の魔天は膝を折った。 とてもひとにものを頼むたぐいの気迫ではないが、形だけは整っていた。 「君は……わたしに主人を頼むためにここにいるんだろう? 君にとってはわたしは余りに若輩(じゃくはい)、取るに足らぬと見えるかも知れないが、そう殺気立って喧嘩腰では話にすらならないと思わないか」 王子は呆れたように笑って見せた。 「主を護り切れず苛立(いらだ)ち、憤(いきどお)る気持ちのすべてがわたしに分かるとは言わない。君にとっては不本意極まりないだろうが、わたしは君にも君の主にも興味がある。なにしろ、神話に伝え聞く魔天とその主だ。交渉するなら、君はわたしのこの興味を利用すべきだよ」 男は言い返さなかった。 「綺麗な夜の色の目だ。少女かな」 王子をじっと見つめていたこどもに、王子は微笑み、煩(わずら)わしそうな額の髪をそっと掻(か)き退(の)けてやった。 「貴方様がそのようにお望みになれば。カナン様」 と精霊。 意味深長な答えであった。 「君の主は……なにものかな」 「それは、お尋ねになられぬほうがようございましょう。どうせすぐに忘れて頂かねばなりません。この方を追う者のひとりは、目をもたぬ代わりにひとのこころを探りますゆえ」 「忘れるならなおのこと、訊(き)いて差し支えはないだろう?」 変わらず頑(かたく)なな精霊の態度に、王子は溜め息をついた。 男はそれ以上、異を唱えなかった。 「永劫の闇をうつわとし、闇を司(つかさど)りし魔道の主にございます。つまり貴方さまの遠い祖(そ)、闇の魔神の、ただひとりの御子(みこ)」 王子の目が驚愕(きょうがく)と、それに続く不信とに見開かれた。 「闇の……かの神の死は、三万年の昔と聞き及ぶ」 「信じられねばそれでも構いませぬ。重ねて申し上げますが、信じようと信じまいと、忘れて頂くべきことでございます」 神代の魔天の守護する幼子(おさなご)。 そう、そんなこどもが本当に存在するとすれば…… そして、この少女のあまりに美しい闇の瞳。 「君の願いは、聞き入れよう。このこどもを……この方をお守りすることは、我ら闇に連なる者すべての責務」 深い嘆息(たんそく)とともにまろびでた王子の言葉に、男は無言のまま、こどもを王子の腕に載(の)せた。 こどもが精霊をみ、王子を見た。 微笑んでそのちいさな手を王子の顔に延ばす。 いのちの鼓動が王子の腕に伝わってきた。 「このぬくもり。この子は、我らの宿業(しゅくごう)からは解き放たれているのだね」 おのが熱のない凍えた手に、ひとの血を奪っておのれのぬくもりとせねばならぬ呪われた手に、幼子が脅(おび)えはしないかと恐れながら、王子は幼子を抱き締めた。 「神のうつわを持たぬ種(しゅ)が、神の血を宿すからこそ障(さわ)りがございます。どうして純血の御子に瑕瑾(かきん)がございましょう?」 精霊の言葉は、神の傲慢を映している。 が、王子はその言葉を腹ただしく感じる余裕を失っていた。 「我が血の渇きを知ったうえで、託(たく)すのだね?」 王子は呟くように男に言った。 精霊は頷いた。 そして…… 消えた。 * 泉のほとりに王子は立っていた。 幼いこどもを抱いて。 だが、そのこどもが何故自分の腕の中にいるのか、王子には思い出せなかった。 ただ、護らなければならない、それだけははっきりと分かっていたのだが。 |
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