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Chapter.7

 目眩がした。
 気怠げに目を閉じた王子の顔を青い月が照らす。
 ……父の来訪が近い。
 王子は寝台から身を起こすことも億劫(おっくう)な身体を叱咤(しった)し、起き上がり、水差しの水をあおる。
 間断なく訪れる目眩と寒気。
 そして、水などでは決して癒(いや)せない喉の渇き。
 血が足りないのは、今に始まったことではない。
 もともと、必要な分すら摂(と)ってはいなかったのだから、と気を確かに持とうとしてみるが、どこまで上手くいっているのか、こころもとなかった。
 銀の月が沈み、青の月が中天に差しかかるころ、父王は執務を終え、王子のもとを訪れた。
 そして、もはや抗う力を失った彼を抱き、まだ幾分、少年の幼さ残したその細い首筋に優しく接吻(くちづ)ける。
「おまえはほんとうにおまえの母に似ている。おまえの母、我が妻にして我が三番目の、妹」
 何番目かの来訪の夜、神の血を確かなものとするために、王にのみ許される血族婚を繰り返した父が、父の強要した壮絶な悦楽と、渇きに喘(あえ)ぐ王子の耳元で囁いた。
「わたしは妹を愛していたが、あれには苦痛でしかなかったようだ。妃となってさえ、我が来訪に脅(おび)えていた。おまえを産み、息をひきとるそのとき、初めてわたしはあれの安らかな笑みを見た。あれとおまえの違いといえば、それだけだな。おまえはわたしに脅えもしなければ、笑むこともない」
 夜ごとの記憶が目眩を誘い、王子は寝台に身を預け、溜め息をつくように呟く。
「わたしは、護りたい。ただ、ただそれだけのことが……どうして許されぬ」
 刹那(せつな)、大好きな御伽話(おとぎばなし)の本を手に、王子に駆け寄る少女の幻がまなうらをよぎった。
 彼女を汚してはいけない。
『だが、いつまで続くのだろうね? 彼女のいのちは短い』
 こころの迷宮の底より囁く声。
『いずれ彼女は老いて死ぬ。おまえよりずっと早く。別れることは辛くはないかね? おまえさえその身に流れる血を忌(い)まねば、彼女に我らとおなじいのちを与えることもできる』
 百年を待たず訪れるであろう別離。
 恐ろしくないわけがない。
 それでも。
 わたしは、彼女を、愛している。
 ならば、選択肢はひとつだけだ。
「彼女がいま、わたしのそばにいる以上の、なにを求めるという? それ以上を望むのは……傲慢(ごうまん)というものだ」
 カナンの思いはいつしか言葉になっていた。
 それは紛れもなく、自分自身に言い聞かせるための言葉。
『愛しているからこそ、おまえが彼女を汚さねばならないのだよ』
 王子の魂の深遠。
 どこからか囁く声は、低い嘲笑(ちょうしょう)とともに消えた。
   *
 扉の開く重い音。
「いつまで意地を張り続けるつもりだろうね。その身はもう、立つことすら思うようにならぬだろうに」
 優しい父の声がした。
 慈愛と、理解とに満ちたその声音。
 王子はこのまま飢えて死んでゆくのも悪くはない、とさえ思いつつ、
「さあ?」
 と、ひとこと、父を見据えた。

Chapter.8

「おまえ、あの美しい主はどうしたね?」
 地の底から這(は)いのぼりきた声。
 その声に、深い森に佇(たたず)む青い瞳の精霊は振り返った。
 見れば、みすぼらしいなりの樵(きこり)が立っていた。
 だが、その気配は樵のものではない。
 いにしえの神。
「……冥府の王」
 精霊は剣呑(けんのん)な輝きを瞳に、樵を睨(ね)めつける。
「ひとのこころを辿(たど)り、ようよう見つけたと思うたが。肝心の闇はおらぬ、か。おおよそ見当はついておったが、やはりがっかりだの」
 樵の視線はあらぬほうを彷徨(さまよ)い、口の端からはだらしなく涎(よだれ)が流れ落ちる。
 冥府の王たる死の依代(よりしろ)とされた者に与えられるのは、地獄の苦痛と、死。
「我が主はおまえにはお会いにならぬ」
 吐き捨てるように精霊は言った。
「それはわからぬぞ、精霊よ。おまえの主はかつて我らの虜囚(りょしゅう)であったおり、じつに従順な玩具であった。美しい伽(とぎ)の相手であったよ。おまえとともに我らが手のうちより逃れ出でしこと、存外、悔(く)いておるやも知れん」
「去れ」
 樵のまわりの大気が、一瞬にして氷結する。
 ぴしり、と、樵の身体に亀裂が走った。
 そして、がらりと音を立てて崩れ落ちる。
『相変わらず気が短いの、冬の精霊よ。それでなくてはからかい甲斐もないというものじゃが……依代がなくば、ここには長く留まれぬな』
「もとよりここはおまえのいるべき世界ではない」
 押し殺した声音。
 その声に含まれた殺気に気づかぬふうに、死者の王は続ける。
『さて精霊よ。おまえの主は何処におる? おまえをおいて。のう……』
「失せよと言っている!」
 苛烈(かれつ)な感情が、精霊の声を染め上げた。
 精霊の動揺に興がのったか、楽しげな含み笑いが凍りついた木々の葉を振るわせる。
『儂(わし)は知っておるぞ。ひとの王の住まう城。闇の瞳を持つ幼子(おさなご)。……いかな儂とて、いまだ強く闇の血の護るあの城には、容易に近づけぬが。精霊よ、おまえの主は人形の如きおまえより、遠き係累(けいるい)を選んだようではないか』
「黙れ!」
 精霊の怒声に大気が震撼(しんかん)した。
 水晶の如く煌(きら)めき降り落ちる、凍れる木の葉。
『万の月日を仕えてきたおまえを捨てたのだ。いかにも口惜しきことではないか。のう……』
 冥府の王の声は、冥い嘲笑(ちょうしょう)を含んだ残響(ざんきょう)を残して消えた。
 同時に、その強大な気配も消え失せる。
   *
 風が木々を渡り、鳴いていた。
 精霊は森を見上げた。
 その視線の先には、王の住まう城の影があった。
 精霊の表情には、激情の名残はない。
 眠りを求めるように瞼(まぶた)が閉ざされ、応えを求めるように唇が言葉を象(かたど)る。
 風の鳴く闇。
   *
 精霊の姿は夜に溶けるように、消えた。



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