1 待ち伏せ / 2 人外魔境の始まり / 3 侵入者 / 4 真祖ふたり / 5 少女たち
2 人外魔境の始まり |
レイゼルドと初めて会った日のことを、栄菜はよく覚えていた。忘れもしないあの日は、父親の策略なのか、丁度彼女の9歳の誕生日であった。 その頃はまだ、見た目はかなり元気だった若い父親は、娘の誕生日を盛大に祝った。盛大にといっても、栄菜は父親と二人きりでこの館に住んでいたので、晩餐のテーブルにはそれほど多くの皿が並んでいるわけではなく、誕生会の出席者は娘と父親だけだった。しかし、花が飾られ、大きなケーキと見栄えのする料理がいくつも置かれたそのテーブルは、まるでどこか遠い国のお姫様の食卓のように、栄菜には感じられた。 楽しい食事の後、父親はある人物を栄菜に紹介した。 「いいかい、栄菜。どうもお父ちゃんはこの頃調子が悪くてね。仕方ないから家の中の仕事をしてくれる人に、一緒に住んでもらうことにしたんだ」 いつの間にかドアの側に、今年28歳になる父と同じ年代の若い男が立っていた。 かなりの長身で、細身だが均整のとれた姿は子供の目にも美しい。真っ黒なスーツに合わせた黒のネクタイを若干緩めてはいたが、それにもかかわらず、どこか優雅で品があった。 目をまるくする栄菜に、父親はくすくすと笑いをもらした。 「彼は家政夫の『れいちゃん』だ。職業は……というより、そうだな……本業は吸血鬼だな」 おおよそ家政夫には見えない身なりと雰囲気、そしておかしな文法と、普段あまり耳にしたことがない単語に、さらに目をくるくるさせた栄菜を見て、父親はとうとう声を上げて笑った。 脇から問題の『れいちゃん』が口元に笑みを張り付けたまま、たしなめる。 「子供に話すのはどうかと思いますが。それにその呼び方も不快です」 「いいじゃないか、ちゃん付きで。家族みたいで僕は好きだなあ」 男は家族という言葉に、唇を僅かに歪めた。瞳は暗く輝き、そこには明らかな侮蔑があった。だがそれもほんの一瞬の間で、再びあの取ってつけたような笑みを口元に浮かべた。 「あなたがそうしたいのなら、私は別に異議は唱えません」 男は一度も栄菜を見なかった。見ようともしなかった。だから栄菜は大きな目をさらに見開いて、彼をじっと見上げた。 「おじちゃんは、外人の人なの?」 男は父親と同じように若く、整った容貌をしていた。黒い艶やかな髪に、同じ色の瞳は深淵を思わせるほど重い光を湛えている。だが、高い鼻梁や彫りの深い顔立ち、そして何より、磁器よりもさらに青白く透き通るような肌が、明らかに東洋人と異なっている。 「そうか、おじちゃんか」 父親は再び肩を震わせた。彼は大層笑い上戸だったが、今日は特別その発作が大きいようだった。 目に涙を浮かべて面白がっている父親とは対照的に、男は表情一つ変えず、冷たい笑みもそのままに、瞳は虚空を映している。まるで栄菜の声など聞こえていないかのようだ。 「おじちゃんはドラキュラなの?」 栄菜は、無視を決めこんでいる男に対して、果敢にも質問した。 男は初めて栄菜を見た。 父親は爆笑した。 「まあ、そうだね。吸血鬼とくればドラキュラだ。だけどね、栄菜、れいちゃんはちょっと違うんだ。外国人ってところは一緒だが、何てったって名前が違う」 男は父親の発言を無視して、その暗闇を映した瞳で栄菜を値踏みするように眺めた。 「子供といえど、その程度の知識はあるようですね……。無闇矢鱈に騒ぎ立てられるよりは、きちんと口止めをしていた方がいいように思われますが」 視線は栄菜に向けながら、男は彼女の父親に抑揚のない声で言った。 「あなたが命じさえすれば、私はこの子供の記憶を閉ざすことが出来ますが」 「無駄だよ」 父親は席を立ち、娘を抱き抱えた。随分と重くなった子供は、幼いながら、大人たちの言葉に耳を傾け、理解しようとしているように、彼の眼には映った。 (今は分からなくとも、いつかは……) 子供の記憶は、ある程度の年齢に達した時に、きっと真の意味を持つだろう。その時のために、父親はあえて口にした。 「無駄なんだよ。君は、私や娘には絶対に危害を加えられない。本人が望まぬ限り、記憶を消すことすら出来ないだろう」 栄菜はその瞬間、ぞわりとした。父親にしがみつき目を逸らしたのにもかかわらず、男がぞっとするほど冷ややかな視線を自分に注いでいるのが分かったのだ。 父親は栄菜の頭を優しくなでる。 「大丈夫だよ。おまえとれいちゃんはきっと仲良くなれるだろうさ。その方が、れいちゃん自身のためでもあるしね」 父親の声音は、今までの柔らかな調子が嘘のように、力強くそして断固たる響きがあった。男は相変わらず冷酷な微笑を顔に張り付けてはいたが、栄菜は先程までの恐怖が一気に萎えていくのをはっきり感じ取れた。 理由は分からない。 なぜか突然全ての真理が分かってしまったかのような、記憶の底から安堵が押し寄せてくるかのような、そんな不思議な感覚だった。 父親の言葉の真意を半分も掴めぬまま栄菜は小さく頷く。 「うん、おとうちゃん。あたし、仲良くするよ」 死んだ母が、いつも言っていた言葉を思い出す。 「誰かを嫌いになるより、誰かを好きになって一緒に仲良く過ごす方がずっと楽しくて素敵なことよ」 母は栄菜が今より幼い時に死んでしまったが、母の言葉は彼女の心の中に今も生きている。 栄菜は吸血鬼だという男をそっとうかがい見た。彼は、青白い両腕を軽く組み、栄菜も彼女の父親も見ていなかった。 (いったい、どこを見ているのかなあ) 栄菜はこの日、眠りに落ちるまで、吸血鬼の視線の先に何があるのか考え続けたが、ついにその答えを見つけることはできなかった。 栄菜は夢を見ていた。 祖父が彼女の手をひいて、地下室への階段を降りてゆく。祖父の手は皺だらけでかさかさとしており、暗い回廊はひんやりとして、かび臭かった。 たどり着いた地下室は六畳ほどで、懐中電灯で照らされた光の中に、黒塗りの大きな箱が浮かび上がって見える。その箱の他には、分厚い書物が四、五冊床に散らばっている程度で、実に閑散としていた。 「論外ですね。それはまだ子供だ。女性ではない」 低い声が石造りの壁に反射して響きわたった。 箱――否、柩(ひつぎ)の中から、男が身を起こし、立ち上がろうとしている。髪に白いものが交じり、目元や口元に細かな皺があるのだが、祖父よりも若く、父よりは年上に見える。上品な中年の紳士といった雰囲気だ。 祖父は何事か男に言い、しばらく男と祖父の間で会話が交わされた後、ようやく男は納得したようだった。 「まあ、いいでしょう。全ての力を取り戻すには不十分だが、この老いた体にはつくづくうんざりしていた所ですからね」 栄菜は男に強い恐怖を感じた。男が近づき、視界が暗転する。視線の定まらない中、祖父の高い笑い声が栄菜の耳に届いた。 「あの女の言った通りだ。これでおまえは我ら一族には逆らえんぞ。その胸の刻印が消えぬ限りな」 赤い色、黒い色、祖父の灰色の髪、地下室の青い壁の色、男の紫色の瞳……。栄菜の瞼の裏でそれらの色が交ざりあい、瞬きあった。 栄菜は瞼を開いた。見慣れたカーテンが朝日に染まり、白く輝いている。 階下から父親の声がした。 「朝ごはんだよ。降りておいでー」 栄菜はむくりと起き上がり、目をごしごしとこすった。 「いま、なんの夢を見ていたんだっけ……」 瞼の裏で踊っていた光は朝日に溶け、栄菜の夢すらも全て洗い流してしまったようだった。 釈然としないまま、制服に着替えてキッチンに向かうと、既に朝食の用意は整っており、栄菜はおっかなびっくりテーブルについた。 いつものトーストにミルクだけという簡素な献立ではなく、色々なおかずがテーブルの上を賑わせている。スクランブルエッグや、かりっと焼いたベーコン、ほうれん草のソテーに、生野菜のサラダ、それにフレンチトーストとミルクティーという栄菜の大好物が一際目をひく。湯気が立っているものが多く出来立てであることがよく分かり、どれもみな非常においしそうな匂いを漂わせていた。 「さあ、お食べ」 父親はにこにこと笑っていたが、栄菜は落ち尽きなく辺りを見回した。遮光カーテンが大きな窓を覆っている。古びた洋館を現代風に改装してはいるが、窓も窓に付属するカーテンも、重厚で厳かな雰囲気は改装前のままだ。それが、締め切った室内の異様な暗さのせいで余計にずっしりと重苦しい。 父親の後ろの壁にわずかに寄り掛かって佇んでいる男を、栄菜は上目使いに盗み見た。 (お日さまの光が苦手って、ホントなんだなあ) 栄菜は納得しつつも再び料理と彼を交互に見やりながら、そわそわとした。 男は真っ白なシャツの上に、父親の真っ赤なエプロンを着けている。ということは、普段とは打って変わったこの豪勢な朝食は、彼が作ったことになる。 「はっはっは。栄菜は心配症だなあ。れいちゃんはプロなんだから、料理だって作るさ。美味しいよ」 父親は躊躇する栄菜を尻目に、さっさと朝食をほおばっている。栄菜は、以前父親が作った一見豪勢な昼食を思い出していた。ビーフストロガノフや、ポトフ、ラザニアやマリネなど、栄菜にはあまり馴染みのない単語を多分に含んだその料理群は、一口食べただけで栄菜の顔を歪ませた。 というよりも、泣きそうになった。 想像を絶するというのは、まさにこのことを言うのだろうかと思うくらい、ものすごい出来だった。甘味や苦みが極端で、脂っこく、水気が多いかと思えば、墨になるほど焦げている。筆舌に尽くしがたいとんでもない味の羅列だった。 普段父が作る家庭料理がそれなりに美味しかっただけに、栄菜は素敵な料理に対する不信感が少なからずあった。 もちろん昨日のような、レストランで買って来たオードブルやその他の仕出し料理、そして父親お手製の家庭料理ならば安心して食べられたのだが、何しろ父親がいうにはあの男は吸血鬼である。栄菜が本やマンガ、テレビなどで知っている吸血鬼は、間違っても料理なんぞしなかった。ひたすら恐ろしげで、悪者だった。 「食べないのなら、もったいないから僕が食べるけど」 父親が栄菜のトーストに手を延ばす。 「だっ、だめだよっ」 栄菜は父親からトーストを奪い取った。 このままでは食いっぱぐれそうな予感がしたからである。 急いで食べたトーストは風味が良くて美味しかった。おかずに箸を延ばし、手当たり次第に口に運ぶが、どれも父親の作る料理とは明らかに味の深みが違う。 「おとうちゃんのより、おいしい」 声は弾み、満面の笑みが栄菜の顔に広がった。 「そうだろう。僕もれいちゃんがこんなに料理が上手だなんて……ほんとに予想以上で嬉しいよ」 父親の台詞に栄菜は一瞬首をかしげた。よくよく考えれば、家政夫に吸血鬼を雇うなんて狂気の沙汰である。というよりも吸血鬼の存在そのものが常軌を逸している。 それにもかかわらず、父親は家政夫だからと吸血鬼に朝食を作らせてしまったのだ。並の神経の持ち主ではない。 (おとうちゃんって、すごいんだなあ) 栄菜は素直に感心した。どうやら父親に似て並の神経を持ち合わせ損なったようだが、本人は全く気づいていないようだった。 「れいちゃんってすごいんだね。将来、きっとすごいコックさんになれるよ」 にこにこしながら話しかけたが、当のれいちゃんは明後日の方を向いていて、栄菜からは、その青白く端正な横顔しか見られなかった。しかも、答えはない。 父親は食べるのをやめ、栄菜の頭をそっとなでた。 「昔を思い出しているんだよ、きっとね。今朝だってフライパンを手に取りながら時折思いにふけっていたもの」 「おとうちゃんは分かるの?」 「そりゃあ分かるさ。絵を描く人は目も良くなくっちゃ」 「ふうん」 栄菜は紅茶を飲み干した。 父親の職業は画家である。そこそこに売れてはいるし、栄菜の曾祖父の遺産のうちの幾らかが、彼女の父親に譲られたので、今のところ生活にも困ってはいない。ちなみにその遺産の一部はこの洋館だったのだが、父親は「いいアトリエ兼住居だ」といたく気に入っている。 栄菜は食事を終え、歯磨きをしながら考えを巡らせていた。 この洋館はとても古く、明治時代かそこらに建てられたのだと、栄菜は一度聞いたことがある。建物の壁には蔦が生い茂っているし、玄関や、部屋の大半が古風なつくりで、調度品もアンティークと呼ばれるものが多い。さすがにキッチンと風呂場とトイレは、栄菜がここに住む前に、現代風に改装されてはいたが、電気のない部屋もいくつか存在するというとんでもない屋敷である。 おかげで近所の子供たちの間では、お化け屋敷として名高い始末だ。 (お化け屋敷にドラキュラかあ。黙っとかないと、またバカ男子にいじわるを言われそうだなあ) 元より誰も信じないことを栄菜は知っている。ただ、古びた洋館と吸血鬼というあまりに狙いすました組み合わせに、父親が家に合わせて『れいちゃん』を雇ったのではと、彼女はその小さな頭を痛くした。 しかしながら、彼が一緒に暮らし始めて1週間が過ぎたある日、栄菜は、家に吸血鬼がやってきたこと以上の精神的打撃を受けて学校から帰ってきた。 玄関の扉を勢い良く開け、父親のいるアトリエへ駆け込む。 「あれ、どうしたの」 父親は思い詰めた表情の娘に、珍しく筆を休めた。 栄菜は開口一番、 「おとうちゃん、名前を変えて」 と詰め寄った。声はあくまでも真剣であり、その様子は明らかに切羽詰まっている。父親は訳が分からず、栄菜の前にしゃがみこみ、目線を同じにした。 「どうして名前を変えたいの? お母ちゃんが一所懸命考えてつけてくれた名前なんだよ」 栄菜はぷうと頬を膨らませた。 「今日ね、国語の時間にね、かん字をならったの」 「うん」 「そしたらね、男子があたしのこと『さかな人間』って追いかけ回したの」 「……え?」 栄菜はうつむき、くやしそうに唇をかんでいる。父親は意味が分からず、娘を覗きこんだ。 「……栄菜、どうかお父ちゃんにも分かるように、説明してほしいな」 栄菜はぽつりぽつりと話し始めた。それによれば、「栄」という字を国語で習い、そのときに音読みは『エイ』、訓読みは『さか(える)』と習ったのだが、授業後、男子の一人が栄菜に言ったのだ。 「おまえ、名前の読み方おかしいぞ。《えな》じゃなくて《さかな》だ。さかな人間だ」 その後、男子のほとんどが『半魚人』だの『魚人間』だの言って囃(はや)し立てたらしい。 「あたし、この名前いやだよ。お父ちゃん、もっとふつうの名前に変えて」 「普通の名前って……」 父親は笑い出したいのを必死に我慢した。子供の心は傷つきやすいものなのだ。だからといってそう簡単に名前を変えるわけにもいかないのが現実である。思案したすえに、父親はぽんと手を打った。 「そうだ、栄菜は今日からさかなちゃんだ」 「?」 「さかなはいいぞ。美味しいし、かわいいし、泳げるし」 さかな、さかなと追い回されるのならばいっそのこと、自分で名乗ればいい。そうすれば馬鹿にして追い回すこともじきに無くなるだろう。 父親はそう考えたのだ。 父親の安直な発想に、娘は素直に感心した。実際すごくかわいい名前のような気がしたし、珍しい名前だから何か特別な人になったみたいな気がする。 つい先程まで普通の名前にしてと駄々をこねた事などきれいさっぱり忘れて、栄菜は上機嫌になった。 「わかったよ、おとうちゃん。明日から、ともちゃんやさっちゃんにそう呼んでくれるように言うね」 娘が鼻歌を歌いながらアトリエを後にしてすぐ、父親はレイゼルドを呼んだ。もう一人の同居人にも通達しておかなくてはならないだろう。 「……ということで、君もさかなちゃんって呼んであげてね」 「あなたがそうしろと言うのなら、いくらでも呼びましょう」 父親は小さく息を吐いた。この吸血鬼は、命じさえすれば足に口づけすることすら厭わないだろう。あの薄い笑いを口元に張り付けたまま、ごく自然に跪くさまは容易に想像出来る。 (この男にとって、俺の足にキスするのも、道端の石ころにキスするのも同じ感覚なんだろうな) 父親には段々それが分かってきた。この吸血鬼は結局誰にも縛られたりはしないのだ。 (まったく、あのクソじじいときたら、俺に何の相談もなくこんな厄介なものを押し付けやがって) 父親はこの時、自分の残り時間が僅かしかないことを悟っていた。自分のいなくなった後、独りぼっちになる娘を思うと胸が痛む。 レイゼルドは栄菜を守るだろう。彼にはそうせねばならない理由がある。 しかし一緒に暮らすことが、苦痛にしかならないような相手では、彼女の生活は悲惨でしかない。それは父親自身がよく知っている。 「君が、あの子と仲良くしてくれることを祈っているよ」 父親の言葉に、吸血鬼は仮面のような表情を崩すことなく「努力はしましょう」とだけ答えた。 |
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