1  待ち伏せ /  2 人外魔境の始まり /  3  侵入者 /  4 真祖ふたり / 5 少女たち


1 待ち伏せ

 三島栄菜(えな)はその時、下校途中であった。
 部活動を終えたばかりなので、少しどころではなく汗まみれで、正直なところさっさと帰って風呂に入りたかった。
 身長が151センチしかない彼女にとって、高校でのバスケットボールはかなり辛いものがある。中学までは小回りがきくことと、スリーポイントシュートの成功率の良さで何とかレギュラーを確保していたが、高校となるとそうは問屋がおろさない。
 部に入って2カ月たったが、栄菜と同じ一年生でも背が高くて上手な子は、既に試合に出してもらっている。
 栄菜は眉間に皺を寄せた。
「そろそろ潮時かもなあ」
「あら、何が」
 栄菜はぎょっとした。ぽつりと漏らした独り言に、応える声があるのだ。いや正確にいうと声ではなく、それは心の中に直接語りかけてきた言葉であった。
(ううっ、近道するんじゃなかったかな)
 日が落ちてすっかり暗くなった公園は、昼間とはまるで違う雰囲気を醸(かも)し出していたが、ブランコの脇に立つ人影が、さらにその場の異様さを煽っていた。
「こんばんは。レイゼルドは元気?」 相変わらず頭の中で鳴り響く言葉は、この場の状況からしてその人影が発したものに間違いないだろう。だが街灯の明かりの外に佇んでいては、若く背の高い女であることくらいは分かっても、正確な顔立ちまでは分からない。
「えっと、あたしに何か用があるの?」
 不信感は大きいが、とりあえず栄菜は尋ねてみた。
 彼の……レイゼルドの名前が出たということは、何の目的で現れたのか知ることが最も賢明である。なぜならば、女はいまだ影の中に居るにもかかわらず、人間のものとは到底いえないほどの侵し難い雰囲気を発し、さらに栄菜の頭の中に直接語りかけてくるのだ。人外のものである可能性はかなり高い。
 レイゼルドが人間ではないのと同様に。
 女は小さくくすくすと笑いながら、街灯の弱い明かりの下に踏み出してきた。
「用ってほどではないけれど……」
 白く淡い光の中で金髪が目映いまでに輝いていた。腰よりもなお長い髪は豊かに波打ち、まるで女の真紅のワンピースを飾る金の刺繍のようにさえ見える。
 女は軽く腕を組み、真っ赤な唇の片端を上げた。
「あのレイゼルドが、人間の娘に執着して一緒に暮らしている……そんな馬鹿げた噂(うわさ)を聞いたから、一体どんな小娘なのか顔を見に来ただけよ」
 街灯が2、3度またたいた。栄菜もまた目をぱちくりとさせた。目の前の女からは敵意は感じられないが、やや挑戦的ともいえるきらきらと光る青い目で、値踏みするように眺められては居心地がいいとは言い難い。
 ただ、尋常ならざる雰囲気と死人のような青白い肌から、女が何であるかは大体見当がついたので、栄菜は女の視線に体をさらしたまま、頭をかりかりとかいた。
「おねえさん、れいちゃんの仲間の人でしょ。えっと、れいちゃんの昔の彼女さんだったら安心してね。れいちゃんにとって、あたしは恋愛対象外だから」
 まるで明日のお天気を語るような栄菜の口調に、女はたまらず吹き出した。
「あなた早合点しすぎよ。あの男と愛を語るだなんて想像するだけで寒気がするわ」
 女はおなかを押さえて笑っている。そんなに変なことを言ったのかなと訝(いぶか)しく思いつつも、女の笑い声だけは普通に耳で聞くことが出来たので、栄菜は少しほっとした。あまり超常現象が長く続きすぎるのは好ましい状態ではない。
 女はひとしきり笑ってから、乱れた髪をかきあげた。その仕草は妖艶で、同性である栄菜をもどきりとさせる。 
「あなたに一つだけ忠告しておいてあげるわ」
(いいなあ、美人のおねえさんは)
「レイゼルドを信用しないことね。彼は自分以外のものは全て、使えるか使えないかの判断しか下さないわ」
(こんなにきれいな人を見れるなんて、何だかちょっとラッキーだなあ。目の保養にもなるし)
「彼が必要ないと判断したら、あなた、すぐに捨てられるわよ」
「…………? 何を捨てるの?」
 悲しいことに美女に弱い栄菜は、女の有り難い忠告をまるで聞いていなかった。
「あなた、可愛らしいだけじゃなくて、とっても面白いのね」
 女は気を悪くした風もなく、くつくつと笑いを漏らしながら、街灯の明かりの下から、再び薄闇の中へと姿を隠す。
「意外と楽しかったわよ。……次に会った時も十分に楽しませてちょうだい」
 それきり、女の姿は闇に溶け、気配も声も消失した。静寂に満ちた公園は、女の存在など無かったかのように、普段と変わらぬ佇まいを取り戻していた。


 小津市の仙川地区の中ほどに、小高い丘がある。その丘の上には、時代にそぐわない古びた洋館が、忘れ去られた過去の遺物のように建っていた。蔦が壁を這い、昼間であるにもかかわらず、カーテンや雨戸で閉じられた窓の数々が、廃屋の装いを呈し、近所の子供たちの間では『お化け屋敷』として名を馳せている。
そのいささか陰気な洋館が栄菜の我が家だった。地上2階建地下1階という、6人暮らしでも広すぎるほどの部屋数を誇る割には、地下には電気も満足に通っていない。
 帰宅した栄菜は真っ先にその地下への扉を開いた。
ワイン倉としても使えそうなほどゆったりとした地下室は2部屋あったが、栄菜は転がるように階段を駆け降りると、奥の部屋のドアを開けた。
開いたドアの向こうには真の闇が広がっている。
「れいちゃん、あのねっ」
「……今日はいつもより5分遅かったですね」
 栄菜の声を遮ったのは、男の低い声だった。闇の中に向かって、栄菜は大きく頷く。
「うん、そうなんだ。すっごい美人なおねえさんに会ってね。あたしのこと面白いって、褒めてもらっちゃったよ」
「…………」
 なおも栄菜は誇らしげに胸を反らしている。
 栄菜にとっては可愛らしいという皮肉めいた賛辞よりも、面白いという評価の方が重要らしかった。
「でも、れいちゃん、もう全部知ってるんじゃないの?」
 闇の中で羽ばたく音がする。彼の『使い魔』の蝙蝠だろう。
 『人間』ではない彼には4人の『使い魔』がいる。それぞれ動物や鳥の姿と人の姿という2つの姿を持ち、彼の手足となって働いているのだが、その使い魔のうち1人か2人を、彼は常に栄菜の側につけていた。それが監視目的なのかそれとも身辺警護のためなのか、のんきな栄菜は深く考えたことはない。
 そもそも考える以前に、栄菜にとって彼の使い魔たちは、彼と同じように大切な身内だったのだ。
「れいちゃん?」
 長い沈黙に耐え切れず、もう一度栄菜は呼びかけた。時折、彼――レイゼルドは何も答えずに黙すことがある。
 がたんと蓋(ふた)の閉じるような重い音がした。
「……夕食を作りましょう。さかなちゃんはお風呂に入ってきなさい」
「うんっ」
 栄菜は元気良く返事した。『さかなちゃん』と呼ばれることは好きだった。なぜならばそれは彼女の死んだ父親がつけてくれた愛称だったからだ。父の死後、この名で呼んでくれるのは、レイゼルドと彼の使い魔たちのほかは、親友の月子しかいない。
「ああ、それと」
 スキップしながら駆け出しかけた栄菜の背に声がかかる。
「『面白い』は女性に対する褒め言葉ではありませんよ」
「ええっ、そうなの 」 
 驚愕の事実に、思わず足を止め振り返る。
「一般的な常識からすればそうでしょうね」
 レイゼルドが闇の中から姿を現した。縁のない眼鏡の奥で、真っ黒な瞳が楽し気な光を灯している。
「ギャーーーーーーっ」
 栄菜はくるりと彼に背を向けた。
 彼の肌は、地下室の廊下を照らす弱いオレンジ色の明かりの中にあっても、ぞっとするほど青白かった。均整の取れた、しなやかな肉体には無駄な肉は一つもなく、喉仏や鎖骨がくっきりしているので、ともすれば見るものに骨張った印象を与えやすい。だが実際は、その肉体の持つ鋼のような強靭さは折り紙付きだ。
 それは栄菜もよく知っている。だが問題はそこではないのだ。
「れいちゃん、どうして服着ないの!」
「着ていますが?」
 栄菜は先程の光景を思いおこした。レイゼルドは上半身裸だった。いや正確にいえば薄い白いシャツを着てはいたが、ボタンは一つもかけられてなく、軽く羽織っているといった方が語弊は少ない。おかげで鎖骨も、広い胸も、そこに刻まれた赤い十字架も、形の良いへそまでもが丸見えだった。
「それは着てるうちに入んないよっ」
 怒鳴ってから、ぜいぜいと息をきらす。
(前々からそうかなーとは思ってたけど、れいちゃんって露出狂の人みたいだ)
 一応とはいえ服を上下とも着ていた者を露出狂呼ばわりしている栄菜は、亡くなった父親の教育の賜物か、呑気でありながらも実際はとてつもない堅物だった。
「では、これでいいでしょう」
 レイゼルドの笑いを含んだ声に、栄菜は眉間に深い皺を刻んだまま、恐る恐る振り返る。
 彼は今度はボタンをとめていた。ただし、三つか四つだけである。必然的に胸元ははだけており、白く冷たい肌の上に刻まれた真紅の十字架は強調され、先程よりも尚、はっきりと見てとれる。
 栄菜は視線を泳がせた。
 彼の胸にあるアザのような、又は鬱血した跡のようなその十字架は、色の鮮やかさからまるでペンキで描いたようだ。
「そっそれも、却下だよ!」
 それだけ言い残して、栄菜はほてった頬を風にさらすように、バスケットで鍛えた脚力及びフットワークをフル回転させて、1階への階段を駆け上がった。
「慌てるとこけますよ」
 案の定つんのめりながら、栄菜は2階の自室まで突っ走り、部屋に飛び込んだ。
 彼の胸の十字架を目にするたびに、のんきな栄菜もなぜかどぎまぎとした。
あの十字架が彼をここに止めている『枷(かせ)』なのだろうと、薄々感じ始めていたせいもあるだろう。
 初めて会った時のことを思いおこす。
 幼い記憶の中の彼はいつも、父親の前では口調だけは丁寧かつ柔順だった。『食事』以外は極力外出もしなかったし、何より外国人である彼が母国へも帰らず、こんな日本の片田舎でひっそり暮らす理由がない。
 きちんと目にしたわけではなかったが、恐らく彼の胸には、その時既に真紅の十字架が刻まれていたのだろう。
 あれから7年が経とうとしている。
 あの頃に比べれば、レイゼルドは随分と丸くなったものだが、それでも時々、栄菜は彼と距離を感じることがあった。先程のように突然裸で現れると――彼女にとってあれは裸以外の何物でもなかった――余計にそう感じる。
「とりあえずセクハラ行為はいけないよってちゃんと言わないといけないなぁ」
 栄菜は下着やパジャマを用意しながら、平和なぼやきを口にしていた。奇妙な女に会ったことも、肌に刻まれた十字架の持つ意味も気にはなるが、彼女にとってはとりあえず、レイゼルドの露出癖の方が当面の大問題だったのだ。

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