サザラの右目 ヴァリアの牙

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第2章 3

 上空に風は無かった。否、そう錯覚させてしまう状況に、レイスたちはいた。
「びっくりしたでしょう」
 竜使いの声がはっきり聞き取れる。彼は飛竜の長い首の先に取り付けられた、御者台の上にあった。
 飛び立つ時に、ひどい揺れと強い風に翻弄(ほんろう)され、座席に自身の体を紐(ひも)でくくりつけられていなければ、振り落とされていたかもしれない。そう感じた事実が、まるで夢かまぼろしのようにかき消えてゆく。
(これが魔術の力……)
 レイスを谷底へと突き落とした、あの風を操る魔術と似て非なるもの……。風を弱め、声を通し、客を守る。上空で風に乗ったせいか、揺れも随分と収まっていた。
(空の上とは思えないな)
 彼方で輝いていた太陽は、時間とともに少しずつその高度を下げ、始めは空を飛ぶという行為に戸惑い気味だったレイスにも、慣れをもたらした。
「これから深夜にかけてゲゼリア山脈を越えます。中継地には明日の朝までには着くでしょう」
 ラルハンが何の前触れもなく口を開いた。少年やエルゼーンに向かって発した言葉ではなかった。彼の茶色の瞳はレイスの姿を映している。
 レイスはどう答えて良いのか分からず沈黙した。
 彼が言った山脈とは、遠くに霞む白い連なりのことだろう。その美しい連峰も、暮れゆく空の中で茜色に染まっている。そんな中、わざわざレイスに話しかけてきたのは、暫(しばら)くはこの状況が続くので、中継地まで我慢してほしいということなのか。
(そんなにわたしは嫌そうな顔をしているのか)
 ルガの言葉が蘇る。にこにこと笑っていた方がいいと。確かにその方が面倒は減るが、レイスの性には合わない。
「どうした」
 余計なことを考えていたせいか、レイスには声が彼方から聞こえた気がした。
「右目が痛むのか」
 言ったのはエルゼーンだった。
「右目?」
 エルゼーンの問いに、レイスは自分が右目を覆うように手を当てていたことに気づいた。
(そうか、さっき飛び立つ時に)
 あまりの風に、顔を覆う布が飛ばないようにと手で抑えていたのだ。布の上からでも分かる、目の周囲を這う醜い蚯蚓(みみず)腫れ……。
 それからずっと風が無いとは分かっていても、右目の上に手を当てずにはいられなかった。自分の顔を見れば、少年はエルゼーンの牙を目にした時よりも、嫌悪を露(あらわ)にするに違いない。
「何でもない」
 そう言いながらも、レイスはもう一度、顔を覆う布の結び目を確認した。

 夜の帳(とばり)が降りた。
 空は真っ黒になり、星の輝きが無ければ上も下も分からなくなりそうだ。
「今、山脈を越えている」
 小声でエルゼーンが言ったが、レイスにはただ黒い深淵が見えるだけだ。
(魔族は夜目が利くのか)
 後ろで少年の寝息が聞こえる。極度の疲労が、決して寝心地の良いとは言い難い座席を、最高級の寝台へと変えたのだろう。
「まずいな。最短距離を飛んでない」
 身を乗り出し下方を覗くエルゼーンの表情は、フードが邪魔して見えない。レイスもまた声を落とした。
「どうなってる?」
「高度が下がっている。一度目を閉じてみろ。右目に意識を集中すればおまえにも見えるかもしれない」
 言われるがままにレイスは目を閉じた。右目がずきりと痛む。その瞬間、レイスは息を呑んだ。とてつもない大きさの岩山がそびえている。白い頂きは頭上遥かに遠ざかり、明らかに高度は下がっているように見えた。
「エル――」
 目を見開くと、座席に取り付けられたランプの橙色の明かりが目に飛び込み、山の姿は闇の中に消えてしまった。
「それは本当ですか」
「ラルハン」
 起きていたのかとレイスは驚いた。確かに寝息は背後からしか聞こえなかったが。 
「おい、竜使い」
 魔術で閉じられた空間の中でラルハンの声はよく響いた。
「その竜は本当に目が見えているのか。それとも寝ているのか。我々は落ちているぞ」
 返ってきた声には僅かな怒気がこもっていた。
「……竜が不調なんです、旦那。すみませんが、一旦休ませてやりてえんです……」 
 言葉が終わらないうちに風が戻った。右目を抑え、レイスは座席につかまる。恐ろしい速度で降下しているようだった。先程まで寝ていた少年が気にかかりはしたが、隣に座るエルゼーンが必ず何とかするはずだ。
 それよりも急激な気温の変化に身が凍りそうだった。冷たい風が耳を殴りつけ、ラルハンが何か叫んでいるが、あまり聞き取れない。
 永遠に続くかと思われたその時間も、大きな揺れと共におこった羽ばたきの音と、緩む空気に、地表が近づいたことを感じさせた。
「ウェン様!」
「ぼくは平気だぞ。怖くなんかない」
「しゃべるな、舌を咬む」
 エルゼーンが注意を促したと同時に、激しい揺れと衝撃が、全員に襲いかかった。レイスとラルハンは座席につかまり何とか揺れをしのぎ、少年は差し出されたエルゼーンの腕にしがみついた。
 どうやら竜は無事に地上に降り立ったようだった。だが安心するのもつかの間、揺れが収まり落ち着いてくると、周囲の異様なまでの静けさに気づかないではいられなくなった。
「おい竜使い」
 呼びかけに答える声はなく、ラルハンの舌打ちだけが暗闇で鳴った。
「ラルハン、早く明かりを」
 少年の声が僅かに上ずっている。ランプの火は座席に風が戻った時点で消えてしまい、互いの顔すら見えない。底知れぬ闇の中でじっと待つのは、慣れないこと続きの少年には耐え切れないようだった。
「わかりました、すぐに」
 かすかな歌のような言葉が聞こえた後、ラルハンの手に光の球体が現れた。
(この男も魔術を使えるのか)
 強い光ではないため、座席を照らすのが精一杯だ。当然、地面も見えず、飛竜の頭もそれに乗っていたはずの竜使いも見えない。
「エルゼーン、おまえには何が見える?」
 夜目が利く彼なら、多少距離があろうが見えるはずだ。問いかけようとして振り向いたレイスの全身に冷たいものが走った。
 視界の隅にあの竜使いの姿が見えた。座席の下方に蛙のごとくへばり付き、闇の中から今まさに這い出ようとしている。
 目が合った。その瞬間、竜使いは恐ろしいまでの跳躍力で、座席へと一気に飛び上がってきた。その手にあるきらめく刃の先には、まだ事態を把握しきれていない少年のあどけない顔がある。握った剣を抜こうとし、レイスは自身の体が今だ座席に縛り付けられたままであることに気づいた。
(間に合わない)
 例えエルゼーンが攻撃に移ろうとしても、狭い座席が行動を制限し、守るべき少年の体が逆に視界を遮りかねない。全てを計算に入れた上で、竜使いは真下から襲ってきたのだ。
 剣を離し、レイスは真後ろに手を伸ばした。無駄とは分かっていたが、凶器が少年を切り裂く前に刃を防ぎたかった。
「くそっ」
 怒声を吐いたのは竜使いの方だった。一体何が起こったのか。
 レイスはその光景が信じられなかった。
 鋭い切っ先は少年に到達する前に阻(はば)まれていた。細い喉もとにエルゼーンの左腕がかかっている。そこに刃が突き立っていた。いや正確には突き立てられていた。
 少年がくぐもった叫び声を上げる。
 ようやく事態に気づいたラルハンが振り返り、蒼白になった。
 すべての出来事がごくゆっくりとした視界の中で過ぎて行く。レイスは刃の切っ先を見つめていた。血はあふれていない。まるで衣服の下に堅い鉄板でも仕込んでいたかのように、刃は布の厚みしかめり込んでいなかった。
(そんなことあり得ない)
 エルゼーンの右腕が伸びる。手には武器は無かったが、その指先には変化が生じていた。 すなわち刃のごとく鋭く長い爪が……。
 竜使いがすんでのところで飛び退(すさ)る。
「全員、すぐに飛竜から降りろ」
 逃げる竜使いを追って、エルゼーンが飛び降りる。その時に初めて、ただ一人、彼だけが、座席に自らを縛っていないことをレイスは知った。
「降りるんだ」
 紐をほどきレイスは叫んだ。
「危ないのでは」
 抗議するラルハンを説得する間を惜しんで剣を抜き、レイスは少年の体を自由にする。
「うわっ」
 座席が激しく揺れ、少年はレイスにしがみついた。飛竜が身体を起こそうとしているのだ。
「おまえは自分で何とかしろ」
 慌てるラルハンに言い捨て、レイスは少年を左脇に抱えて飛び降りる。高さがあるため、少しでも衝撃を和らげようと座席の横にくくり付けられた荷物に手をかけたが、重さに耐えられなかった荷物もろとも落下する。だが、その荷物が緩衝材代わりとなった。
 飛竜の咆哮が大地を轟かす。
 レイスたちの後を追うようにラルハンが転がり落ちてきた。ラルハンの手の中の明かりは輝きを失ってはいなかったが、大して役に立つとは思えない。それでも足元を照らすには十分で、三人は逃げるように巨大な竜から離れた。
 再び飛竜が哭く。どこかで乱れた足音がする。
「きさま、西の者か」
 それは確かに竜使いの声だった。かすかな声だったが、レイスの耳には届いた。だが、上ずった声には隠しようのない驚愕と、そして紛れもない恐れがなかったか。
 レイスは暗闇に目をこらし、耳を欹(そばだ)てる。
 鋼と鋼がぶつかるような鋭い音が何度かした後、竜使いの叫び声が聞こえた。間をおかず何かかがどさりと倒れる音。それをかき消すように大きくなってゆく、巨大な何かが動き回る音……。
(……エルゼーンが勝った。だが……)
「ラルハン、僕を守れ」
 少年がじりじりと後退している。少年の側にぴったりと付き従うラルハンの明かりの中にはまだ見えないが、飛竜が動き回る足音が振動を伴って聞こえた。息遣いまでもが、空気を震わせる。
 レイスは二人を庇(かば)うように飛竜と彼らの間に立ち、剣を抜く。右目が痛む。閉じたまぶたに、釜首をもたげ、大きな口を開け、三人にまっすぐ向かってくる飛竜の姿が映った。
「早く逃げろ」
 明かりの中に竜の前足が見える。だが、少年もラルハンも足が竦(すく)み、まったく動けない。竜はその獰猛な本性をすべてさらけ出し、レイスたちに襲いかかる寸前だった。
 二人を置いて逃げるわけにはいかない。
(死ぬのか、ここで?)
 だが、突然、飛竜は一際高く吠えると、翼をはばたかせ始めた。強い風が襲いかかり、レイスは二人を突き飛ばし、自らも地面に伏せる。風が小石や小枝を巻き上げ、レイスたちの体に容赦なく叩きつけたが、長くは続かずすぐに弱まった。
 周囲に静寂だけが訪れる。三人は辺りの様子を伺いながらそろそろと立ち上がった。
(飛竜がいない)
「逃げたみたいだな。……僕たちを置いて」
 幼い声に安堵と困惑を感じて、レイスは空を仰ぎ見た。
 少年の言葉が全てを言い表している。
 しかし、安易に喜ぶことは出来ない。自分たちは置き去りにされたのだ。

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