サザラの右目 ヴァリアの牙
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第2章 2 |
ドーリエルを出て数刻、パシュウィンに入ると、町の雰囲気ががらりと変わった。砂地が多く、緑が少ないためか、一見して寂れて見えるのに、街路は様々な出で立ちの人々で溢れている。肌の色も髪の色も目の色も千差万別だ。レイスは素直に感嘆した。 「すごいな。ドーリエルと同じくらい賑わって見える」 「ここが中継地だからだ」 何のとレイスが問う前に、エルゼーンは空を指した。青い空に何か大きなものが羽ばたいている。 レイスは驚きのあまり言葉を失った。 「あれは……」 「飛竜だ。南へ行くには最も速い」 ではあれに乗るというのか。 右目がずきりと痛んだ。閉じた瞼に一瞬だけ浮かんだのは、鬱蒼(うっそう)と生い茂る森だけ。 (わたしはこいつを信じるしかない) エルゼーンに先導される形で人の間をぬって奥へ奥へと進む。やがて人は疎(まば)らとなり、裏通りへと出た。路地の一角に古びた長屋がある。木の壁は黴(カビ)のために変色し、虫に食われ穴だらけになっている。扉の取っ手はルガの店よりも悪く、ほとんど朽ちかけていた。 エルゼーンが扉を軽く叩く。 「ルガの紹介を受けたものです」 扉の奥で鍵を開けるような音がする。エルゼーンが扉を押し開けると、彼と同じように暗い色のフードを目深に被った人物が二人立っていた。一人は非常に小柄で、わずかに見える顔がレイスを驚かせた。 (子どもだ) エルゼーンが彼らの前で書状を紐解き、背の高い方の人物がそれにざっと目を通す。 「そちらの方は女性でしたか」 フードの奥にある表情まではつかめないが、レイスの顔や姿を伺っていることは明白だった。 「なるほど、この場合、同行者は確かに必要でしょうね。わかりました、契約にそちらの方の報酬も加えておきましょう」 声質で若い男だとは分かるが、かなり落ち着いている。荒れてもいないきれいな指先からみて、剣や鍬(くわ)を握ったことは無いようだとレイスは思った。 「ラルハン、僕は認めてないぞ」 小柄な方が、少女のような声を上げた。 「魔族、それもよりにもよって『西の者』と一緒な上、これ以上得体の知れない者が加わるなんて。それより従者を増やせ」 幼い声に似合わぬ傲慢な口調、嫌悪を隠さず不躾(ぶしつけ)なまでに『護衛者』を眺めまわすその不遜(ふそん)な態度に、レイスは眉根を寄せた。 ラルハンと呼ばれた背の高い男が、ため息を一つついてフードを脱ぐ。 「申し訳ありません。この方は何分、年端もいかぬ幼子(おさなご)でして、礼儀というものを知らないのです」 「何だと、無礼な奴め」 怒り狂う少年からも、自然とフードが落ちる。 対照的な二人だった。 ラルハンと呼ばれた方は、肩まである栗色の髪にも、顔立ちにも取り立てて癖も特徴もなく、細身で穏やかな物腰だ。 一方、少年の方は、少女かと思われるほど美しかった。輝く金髪に、吸い込まれそうなほどの大きな青い瞳。柔らかな頬も尖らせた唇もほんのりと朱色に染まり、肌の白さを際立たせている。そして何よりも額に刻まれた幾何学模様が印象的だった。 (話に聞く貴族様とやらは、こんな感じなのだろうな) ラルハンの態度から見ても、守らねばならぬ相手とはこの少年のことなのだろう。 (これだけ目立つ存在が、魔族の護衛が必要なほど危険な旅に出る) レイスはなぜエルゼーンが、血の補給者を求めたか想像がついた。長い旅の間、極力人目を避けて行動せねばならないことを考慮していたのだ。腕が立つ者が必要だったのも、危険を伴う旅において、補給者が足手まといでは本末転倒だからにちがいない。 そうまでして守らねばならぬであろう少年は、怒気で顔をこれ以上ないくらい赤くしている。 「僕はこんな得体の知れない者たちと行くのは嫌だ。しかも従者が少なすぎる」 「だから、それは以前から申し上げていたとおり、飛竜を使うためです。どうしてそう駄々をこねるのです」 あまりに頑迷な様子に、ラルハンは叱る気力も失ったか、あきれ顔を天に向けている。 「その飛竜のことですが」 割って入った低い声はエルゼーンのものだった。 「私はむしろ危険だと思います。相手が人間ならばほとんどの危険は防ぐ自信がある。だが、上空から墜落した際には助けようがない」 少年の顔が輝く。 「ほらみろ、僕の言うとおりだ。従者をたくさん連れて、馬車に乗って行こう」 「それは無意味な上に危険だ」 エルゼーンの口調は既にぞんざいで冷たいものになっていた。 「従者が増えれば否応にも目立つ。それに襲われた時に必ず死人が出る。……無駄に人が死ぬがそれでもいいのか」 反論されたためだろう、少年は苛立ちを隠しもせず毒づいた。 「それはおまえが何とかしろ。そのためにやとったんだ、おまえの餌(エサ)の分まで」 「殿下!」 ラルハンが血相を変え、すぐさま「暴言をお許しください」と頭を垂れた。 餌と呼ばれても、レイスは侮辱と受け取らなかった。 (本当のことを言っているだけだ) 彼らの事情をレイスは知らない。知りたいとも思わない。彼らを護る旅であり、そしてエルゼーンの食い物となる旅である。そこにレイスの自己もレイスの意志も不必要ではないかとさえ彼女は思っている。 (わたしはこの右目が何なのか知りたいだけだ) 旅の間が無理ならば、旅の終わりには、エルゼーンから彼の知ることを全て聞きたかった。 当のエルゼーンは子どもの暴言に眉一つ動かさず、淡々としている。 「私も彼女もまずあなたを守らねばならない。他の者にまで手が回るほど万能ではない」 「ならば、飛竜を使う。これは命令だ」 「殿下!」 ラルハンは途方にくれていた。少年の決定は、ほとんど感情のままに勢いで言った言葉にすぎない。そこに思索も考察も無いのだ。 「うるさい。元々母上が用意してくれた飛竜だ。それに一刻も早く着かなければ儀式に間に合わない」 「確かにそうではありますが……」 エルゼーンの言葉により、迷いが生じたのか、ラルハンの歯切れが悪い。 (儀式……) いやな言葉だった。 レイスが理由の無い不安にかられる中、結局飛竜を使うことに決定した。一刻を争うのは事実のようで、この件の責任者であろうラルハンが折れた時点で他の選択肢は消えた。 「飛竜の速さは必要不可欠です。エルゼーン、あなたには申し訳ないが、呑んでいただきたい。それと、もうお気づきかもしれないが、私は青の秘石を身につけています。ウェイユルーの子の一人として、お許し願いたい」 「それは分かっています」 丁寧な答えをしたエルゼーンを、レイスは意外に感じた。同時に、ラルハンが言った意味が分からない自身に忸怩(じくじ)たる思いも生まれる。 (知ろうとせねばならない。この広い世界で生きていくためには……。だが……) 「では、飛竜の元へ向かいましょう。積荷も用意されています」 ラルハンは再びフードを目深に被った。少年も彼に倣う。 「おい、ラルハン。ちゃんとあのことも言っておくんだ」 フードを被ると少年の額にある不思議な幾何学模様も、その美しい顔も暗い陰の下に隠れてしまった。彼の澄んだ声だけが、彼の幼さと高慢な性格を伝えている。 ラルハンは少しだけ肩を上げ、ため息にも似た長い息を吐いた。 「理由は話せませんが、あなた方二人にはもう二つお願いがあるのです」 ラルハンの申し出は奇妙なものだった。一つは絶対に素性を尋ねないこと。もう一つは、知りもしない少年の名を呼ぶなということである。話し掛ける時も出来るだけ、ラルハンを通して話せという。 (世の中には随分と変わった奴が居る) レイスはそれだけ思った。 護る者二人、護られる者二人という一行は町外れへと向かった。 少年とラルハンは、これから乗る飛竜についての知識や、旅の荷物の内容についての会話に忙しい。しかし前の二人とは対照的に、エルゼーンとレイスの間にはとりたてて交わす言葉もなく、不必要なまでに静かだった。 (気乗りしないのだな) フードから僅かに覗くエルゼーンの冷たい顔は仮面のようで、表情というものを全て取り払っているとしか思えない。 「レイス」 エルゼーンが不意に呼びかけた。 「嫌な思いをさせたな」 声に滲む響きは謝罪に似ていた。 (餌と呼ばれたことを言っているのか) 「いや」 否定の後に続く言葉を探したが、どれもとり繕(つくろ)ったように聞こえそうで、レイスは沈黙した。 (餌でもかまわないのだ。わたしはそのために雇われたのだから) 理性では納得したはずのことだった。だが、餌と言われ、レイスは不意に自分がまだ何も知らされていないことに気づいた。 (違う。知ろうとしなかった) 閉鎖された村で過ごし、世界をまるで知らない自分。だが、そのことを口にすれば、人に不審感を持たれてしまう……。不審や疑惑は、おぞましい右目を持つ身には破滅への道標になるかもしれない……。知らず知らずのうちにレイスの枷(かせ)となっていたものに、彼女はようやく気づいた。 (エルゼーンは魔族だ。それに、私の右目のことも知っている) 彼になら尋ねても大丈夫なのではないか。 「エルゼーン、聞きたいことがある」 「何だ」 見下ろすエルゼーンと目が合い、レイスは戸惑った。彼の口元にどうしても視線がいく。 「お前は私の血を吸うといった。その……三度の食事ごとにか」 「違う」 エルゼーンの声は低く、視線はレイスから離れた。前の二人は話し込んでいて、こちらの会話には気づいていないようだ。 「西の者は血を糧とはするが、人間のようにそう頻繁に食らうわけではない」 「では、いつ……」 「俺の喉が渇いた時だ」 漠然とした答えだった。つまり、突然求められることも充分あり得るということだ。 「他に聞きたいことはないのか」 自身の中にあった「もう一つ聞いてもいいか」という言葉をレイスは飲み込む。 (心が読めるのか?) 謎めいた銀髪の女の姿が脳裏をよぎる。まさかとレイスは首を振った。 「さっきラルハンが言っていた……青の秘石とは何だ? それにウェイ……」 「ウェイユルー。地母神の名だ。彼女を信仰するのはこの国だけではない。この大陸全土に渡って信徒が居る」 知っていて当たり前のことなのか。だがレイスは、言いようのない安堵がじんわりと広がるのを感じていた。エルゼーンはレイスが「知らない」ことについて触れはしなかった。不審や疑惑も無論無い。 (本当だ。あの銀髪の女も、ルガも私に怯えがあると言った。私は私自身が怖かった。そして同時に、私は私を知られることを恐れていたのだ) だから、殊更(ことさら)疑いを抱かれないよう、口に蓋をし、疑念を無視した。 「……不思議だな。私たちの村では知らない名だ」 知らないと口にすると、ずっと痼(しこ)りのように重くのしかかっていた「心」が少しだけ軽くなった気がした。レイスの表情は知らず知らずのうちに和らぎ、エルゼーンに見つめられていることにも、彼女は気づかなかった。 「ダンハの樹を知っているか。ドーリエルのウェイユルー神殿にあった巨大な青い木のことだ」 エルゼーンが逆に問いかけてきた。青い巨木……それは彼女のこれまで見てきたどの木よりも大きく、そして不思議な木だった。空を写し取ったかのような水色の幹に、真っ青な葉。まるで造りもののような色味であったのに、まさしくそれは生きている植物だった。 「知らない」 レイスは正直に答えた。エルゼーンの歩みは前の二人に合わせ、一定の距離を保っている。通りは様々な人でごった返してはいるが、エルゼーンの魔族としての力量から察するに、距離があっても守りきる自信があるのだろう。 エルゼーンはレイスの方を見ないまま、続けた。 「青の秘石は地中深くから発掘される。詳しいことは不明だがダンハの樹液が長い年月をかけて石化したものだと言われている」 「樹液が石になる? そんなばかな……」 信じがたいことだった。レイスの村ではそんな話は一度も耳にしたことはないし、父が読むのを許してくれた本の中にも、そのような記述は無かった。 「だが、秘石にはダンハの樹液と同じ効果がある」 「効果……?」 「魔族を寄せ付けないのだ。特に西の者にとってはダンハの樹液は弱点にも等しい」 驚きを隠せず、レイスは隣を歩く長身の魔族の男を穴の空くほど見つめた。彼の顔には相変わらず、感情らしきものなどまるで浮かんでいなかった。 「樹液は我らの身を焼く。秘石はその効果がさらに強い。しかし人間にとっては奇跡の水でもある。ウェイユルーの神官たちは樹液を飲み、癒しの力を得るという」 そして同時に、西の者の牙から自身を守る「血」を造るのだとエルゼーンは言った。 (この男は、自分の弱味を自らあかしている) 周知の事実ではあるだろうが、そのことを全く知らない相手に対し淡々と言っている。 (わたしにそれが出来るだろうか) エルゼーンは、それ以上何も言わず、二人はただ黙々と目的地を目指した。 周囲の喧噪が薄れ、建物が疎らになると、やがて石塀に囲まれた砂地が眼前に広がった。 「大きい」 目を奪われたのはレイスだけではないようだった。少年がぽかんと口を開け、ラルハンの袖にしがみついている。 砂と共に現れたのは巨大な竜たちだった。レイスがこれまでに目にしたどの魔物よりも大きく、また、鋭さを纏った姿は美しい。飛んでいる様子を目にした時には、いまいちその大きさをはかりかねたが、こうして間近に見ると改めてその巨大さに驚かされた。 「ラ、ラルハン、これは乗り物ではない」 脅えきった少年とは裏腹に、レイスは初めの印象ほど恐ろしいとは思わなかった。よくよく観察してみれば、飛竜たちは外見に反してごくおとなしく、どの竜も、側に居る人間の指示通りに飛び立ったり、客を乗せるために身を屈めたりしている。 完全に交通手段の一つとして成立しているものなのだ。 「我々の飛竜はあれです」 脅える少年を宥(なだ)めつつ、ラルハンが指した先には、一頭の真っ黒な飛竜がいた。ほかの飛竜に比べ二回りは大きく、近づくとさらにその圧倒的な迫力に気圧される。 「目玉が僕の頭と変わらない……」 ラルハンの腰に両腕を回し、がたがたと震えている少年の姿に、レイスは、彼がなぜ殊更従者に拘(こだわ)ったか分かるような気がした。 強がってはいるがその実、少年は恐ろしくてたまらないのだ。 (わたしも最初はエルゼーンに剣を向けた) 人間の血を吸う魔族と、その魔族の餌だという顔半分を布で隠した女。そんなものに囲まれ、信じる者はラルハンしかいないこの状況は、まだ十歳にも満たないはずの少年には酷だろう。 (だが、もしラルハンが裏切れば) 柔和な顔をした若者を、レイスは信用してはいなかった。 飛竜には翼の根本から首にかけてせまい座席がくくりつけてある。お互いの体がかなり密着するこの状況で少年の隣に座り、力の限り突き飛ばせば全てが終わるのだ。叔父アズグの例もある。思いもかけない人が突然刃を向ける……それは起こり得る事実だった。 レイスの視線の先で、ラルハンが飛竜の側にいる人物と話をしている。フードの下からじっとそれを見つめる少年はレイスの側に居るが、たんに飛竜に近づきたくないからだろう。対照的にエルゼーンは悠然とその黒い巨体に近づき、座席や座席の下部にくくりつけられた荷物を眺めながら、ぐるりと一周している。 (本当に何も恐れないのだ、この男は) むしろ魔族にとっては飛竜の方が、人間よりも近い種族になるのかもしれない。 思いを巡らすレイスに声がかかった。一通り話が終わったのか、ラルハンが手招きしている。こっちへ来いというのだろう。彼の側に居た男が軽く頭を下げた。 「さあどうぞお乗りください」 飛竜の御者である竜使いは髭を蓄えた老齢の男だった。 (いやな感じだ) レイスは男を無視し慎重に縄梯子(なわばしご)を登る。 彼女の後に続いた少年は、まだ恐怖が拭い切れていないようだった。「ぼくは全然怖くないぞ」と虚勢を張りつつもラルハンの後ろに隠れるようにしてじりじりと歩み寄り、急いで登ろうとすればするほど、不安定になる縄梯子に四苦八苦している。 座席は横に二席、縦に二列で、並び順はエルゼーンが決めた。御者が、子供は前列の方が安定して座りやすいだろうと言ったが彼は無視した。 まずレイスとラルハンが前列に座り、レイスの後ろに少年、その隣にエルゼーンが座る。 「ラルハン」 か細い少年の声が不安を強く示している。 「大丈夫です。西のも……エルゼーンの隣の方が安全です。前は彼女が守ってくれる」 レイスは少なからず驚いた。前からの襲撃に備えるということは即ち、ラルハンは竜使いを完全に信用してはいないということだ。これから命を預ける者よりも、エルゼーンを信頼し、そしてなぜレイスにまで同じ信頼を寄せるのか。 (わたしはおまえなんか信用していないのに) 隣に座るラルハンが、レイスに向かい、真面目な面持ちで頭を下げる。言葉は無くともその意味は充分に伝わる。 レイスは明後日の方向へ視線を逸らした。 (あの子どもの方が、世の中を分かっている。人を簡単に信じれば、必ず利用される) だがそれでも、ラルハンを嘲(あざけ)る気持ちは沸かなかった。 (ラルハンはエルゼーンを信用している。だから、彼の餌でしかないわたしも信用している) どこまでも青い空には、雲が幾筋も走っていた。 |
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