サザラの右目 ヴァリアの牙

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第2章 4

 重い沈黙が流れる中、僅(わず)かに草を踏み締める音がした。レイスは身構えかけてやめた。
「竜使いは死んだ」
 現れたエルゼーンはフードを取っていた。顔の青白さと唇の異様なまでの赤さが、彼を殊更(ことさら)『魔族』に見せる。
(だから竜使いは分かったのか)
 フードを目深に被り、直接会話をかわすことも無いとあらば、よほど疑ってかからねば、誰も魔族とは思うまい。むしろ、ラルハンも少年もフードを目深に被っていた状況から考えて、竜使いがエルゼーンを従者の一人と考えたのは道理だろう。
 それが、結局竜使いに油断を生じさせたのだ。
 エルゼーンによれば、あの竜使いは夜でもかなりはっきりと見えるよう、予(あらかじ)め魔術を施(ほどこ)されていたという。暗闇の中でエルゼーンと対峙した竜使いは、自分が夜目が利くことを呪ったかもしれない。何よりもあの驚愕に満ちた声をレイスは忘れられなかった。
(竜使いは恐れ、そして恐れた通りの殺され方をしたのだ)
 エルゼーンの指先が血に濡れている。唇の端や顎には、赤黒い汚れがうっすらとあり、これが何をふき取って出来たか容易に想像出来た。
「本当に殺したのですか」
 抑えてはいるがラルハンの口調に責める響きがあった。
「わたしの友人に西の者が一人います。友というよりも恩人といった方が正しいかもしれませんが……。彼から聞いた限りでは、あなたがたは血を吸うために殺すことはないはずですが」
 いつの間にか少年を守るようにエルゼーンの前に立つラルハンの表情は険しい。
「それとも、自制心の欠如が招いた結果ですか」
 村を出るまで魔族の存在すら知らなかったレイスですら、エルゼーンが竜使いに何をしたか想像できた。
 否、見えた。突如として、見たくもないのに、閉じられたはずの右目が、首を切り裂かれた無残な死体を映し出す。そして、死体に身をかがめようとする、長身の男の姿を……。
(ラルハンの危惧は一つ)
 今まで味方だった者が文字通り牙をむくことだ。レイスが右目で見た限りでは、エルゼーンは死体の血を啜ったようだった。だが、先に殺した理由が、血を存分に啜るための口実だったとしたら?
 見知らぬ土地に放り出され、このままでは人里にたどり着くまでに長い時間を要することは必至だろう。その長旅の中でエルゼーンが再び乾きに見舞われた時、どうなるのか。
(エルゼーン)
 彼は平然としているように見えた。指についた血を外套でぬぐい、一つ大きく息を吐く。
「生け捕りが望ましいのは分かっていた。だが、出来なかった。それともう一つ。俺が理性を失っていたのなら、今頃全員死んでいる」
 レイスの背中をひやりとしたものが走る。エルゼーンの口調に依然として変化はなく、淡々としているからこそ、真実味が増して聞こえた。
 対峙するラルハンの額にうっすらと汗が浮かぶ。
「それは、わたしの耳には、脅しにも虚勢を張っているようにも聞こえます。人間一人、生け捕りにも出来ないものが、我々を簡単に殺せると?」
「……失言だった。生け捕りに出来なかったのは、竜使いが呪術を使ったからだ。奴の腕を切りつけ、剣を落として組み伏せたが、呪術は完成していた」
「呪術?」
 訳が分からずエルゼーンを仰ぐレイスに対し、ラルハンは顔色を変えた。
 エルゼーンがかいつまんで説明する。竜使いはそもそも飛竜を自由に操ることが出来るが、呪術の得意な者の中には飛竜の本性を呼び覚まし、目標を指定して襲わせることも可能だという。その本質は魔術とは似て非なるものらしいが、結局レイスにはあまり理解できなかった。
 エルゼーンが続ける。
「時間が無いのは分かっていた。最も早く解呪するには唱えた者を殺すことだ」
「では、あの時、飛竜が突然飛び立ってしまったのは……」
 驚きのあまり思わず発したレイスの言葉を受け取ったのは、ラルハンだった。
「縛る者が消えたのです。だから去った。元々飛竜は非常におとなしい性格なのです」
 ラルハンの口調から責めの響きは薄れた。緊張のために表情がこわばってはいたが、エルゼーンに口が過ぎたと謝罪も述べている。
(エルゼーンは見ていたのだ。わたしたちを……)
 だから最善と思われる策をとった。
 だが命を救われたのだと感謝の念が沸く反面、レイスの胸に暗いものが落ちる。
 結果的にエルゼーンは竜使いを殺し、その血を啜った。
(次はわたしが吸われる番だ)
 何日後なのか、何時間後なのかも分からないままに……。竜使いが少しだけその時期を遅くしてくれたにすぎない。
 初めてエルゼーンに会った時、彼の唇からしたたる血の赤さと、部屋をうめる鉄に似た匂いを、レイスは忘れてはいなかった。だが、人間と変わらない姿と言動には、彼がそういう種族なのだと納得させる何かが、確かにあったのだ。
(エルゼーンは目的のためには平然と人を殺せる)
 武器はなくとも、恐ろしいまでの力と、鋭い爪と牙が、敵を死へと導く。
 それが分かってしまった。
 喚起される恐怖。
 頭から血を流した父親の姿、のどに破片をうけた若者の姿――。彼らはその後どうなったのか、末期(まつご)をどう迎えたのか、誰が弔ったのか。
(わたしが悪いんじゃない。わたしは殺したくなかったんだ)
 レイスは我が身をかき抱いた。恐れが再びレイスを苛んだ。
(わたしだけじゃない。誰も同じなのだ)
 ラルハンも少年も竜使いが死んだことを喜んでいるように見えた。自身の身が一番かわいいのだ。当然なのだと思っても、安堵は訪れず、惨(みじ)めさと寂しさだけが残った。
 エルゼーンは本当に信用出来るのか?
 ラルハンや少年は?
(わたしは今、どうしてここに居るのか)
 生き抜いてやると心に誓い、自身を変えた右目を知るために、ここまで来たはずだった。なのに今、飛竜に食われかけ、遠くない未来には魔族に食われるのだ。もしかすればその前に飢餓で果ててしまうかもしれない。
 空しさが去来してやまない。一体何が右目に入っているのか、それを知りたいと思うことが間違っていたのだろうか。
(あの時、濁流に飲み込まれ、死んでいた方がむしろ良かったのか)
「どうした、寒いのか」
 レイスは我に返った。エルゼーンが真っ黒な外套を脱ごうとしている。
「いや、わたしは……」
「俺は寒さは感じない。これを着ていろ。おまえは薄着すぎる」 
 レイスは不意に泣きたくなった。
 エルゼーンを信じたい。無性にそう思った。
 信じられたらどんなに楽だろう。
 だが出来ない。
(わたしが大事な『食料』だから気遣ってくれるのだ)
 そう考えるのが妥当なのだ。
 今まで身に付けていた古い外套とは異なり、エルゼーンのものにはフードもついて生地も厚い。渡された外套を身に纏うとその暖かさが余計に胸にしみた。
「ぼくも……寒い」
 震える声がした。フードの下で幼い顔が青ざめている。慌ててラルハンが自らの外套を脱ぎ、少年に被せた。
「すみませんでした。すぐ火を起こしましょう」
 人間というものは実に正直にできていると、レイスは小枝を拾いながら思った。敵が去った今、寒さも感じるし空腹も感じる。一人満たされたであろうエルゼーンを除けば、ラルハンも少年もレイスと思いは同じだろう。
 集めた小枝は湿気を含み、なかなか火がつかなかったが、小さな火がやがて大きな炎となって揺らめき立つと、少年もラルハンも黙って両手を火にかざし暖を取った。
「そっちはどうだ」
 レイスが闇に向かって声をかける。
「これだけしかなかった」
 夜目の効くエルゼーンが、竜の背から落ちた荷物を拾い集めてきた。
 飛竜には予め、少年とラルハンの荷物が座席の横にくくりつけられていた。しかし飛竜が飛び立った今、荷物の大半が失われてしまった。残った荷物も、いくつかは飛竜に蹴散らされ、使いものにならない。
 レイスもエルゼーンも自分の荷物を持ってはいたが、長旅が可能なものでは無論ない。
 結局この夜の食事はつぶれたパンとわずかな果実酒、あとは干し芋が少しきりだった。
「元々中継地での補給は想定していませんでした。パシュウィンのように物資の豊富な町の方が珍しいのです。ですから乾物などの日もちのする食料は多めに用意していたはずなのですが……」
 ラルハンが言葉につまるほど状況は悪かった。まず飲み水がない。残された食料は少なく、日もちのするものは限られている。また、防寒という面でも、衣服の不足が目立った。
 少年はぼろぼろの荷物の中から、どこで着るのか分からないような派手な薄手の上着を引っ張り出した。それを身につけた上で、自分の外套の上にラルハンの外套を重ねて着ている。それでも寒そうだった。
 外套のないラルハンは、厚手の上着の下に、少年と同様に荷物の中から取り出した衣服を何着か着込む。ただしその服は飛竜によってかなりすりきれてはいたが。
 もともと、外套とは名ばかりの薄いマントを身につけていたレイスは、エルゼーンの外套を借りたおかげで随分と寒さをしのぐことができた。かといって、それで体を覆う冷気を完全に防げたわけではない。
「随分と冷えるのだな]
 決して温暖とはいえない土地で育ったレイスだが、村を出て以来、久々に体感する寒さだった。
「開けてはいるが、ここはまだ山の中腹だ」
 焚き火に小枝を差し込みながら、エルゼーンが小さく言った。貧しい食事をする三人と違い、彼は何も口にしなかった。
「これから山をくだり、とりあえず中継地までたどり着くことが先決だろう。ただし迷わないという保証はないがな」
「地図は? ラルハンが地図を持ってたはずだ」
 とりあえず空腹を満たした少年の声には明るい響きがある。少年に言われるまでもなく、ラルハンは筒状に巻かれたごわごわとした紙を取り出し紐解いたが、歓喜は一瞬だけだった。地図には王都ドーリエルやパシュウィンなど中継地の位置は記してあった。越えてきた山々の姿も。
「ぼくらは今、どこにいるんだ?」
 ラルハンは押し黙り、レイスは少年から目をそらした。レイスには書いてある言葉は読めても、これまで地図そのものを見たことがなく、地図上の距離と実際の距離が一致しない。その上、地理に疎いため、これがどこまでの範囲を収めたものかさえ分からない。
 ほとんど無意識のうちにレイスはエルゼーンに目を遣った。外套が無いせいで、度を越した青白さがよく分かる。骨張った鎖骨や手首、手の甲や首を走る青い血管。炎に照らされているのにどこまでも蒼い吸血族。
 しかし彼の黒い瞳には、戸惑いも不安も、迷いさえも微塵もない。
「我々は恐らくこの辺りにいる」
 まっすぐ指し示された指先にあの長い爪は無かった。うっすらと赤黒く汚れた指が、地図の上をゆっくりすべる。
「ここから人が歩ける所を探し、下ってゆく。中継地であるリムザへたどり着くまでに、村かもしくは街道に行き当たればいいが、山を歩く間に自分の位置が分からなくなる可能性もある」
「我々の居る位置がこの辺りだという根拠は?」
 ラルハンの尤もな問いに、エルゼーンはただ「ずっと空から風景を見ていれば分かる」とだけ答えた。夜目が利くだけではなく、人間の目ではとらえきれないほどの彼方まで、彼らは見通せるのかもしれないと、レイスはぼんやりと思った。
「地図にも記してある川の源流を見つけられれば、リムザまで行くことは決して無理ではないだろう」
 抑揚のないエルゼーンの声が、不思議なほど頼もしく聞こえる。
「ならば出発は明日にしましょう。殿下も今日はお休みください」
 たとえ地図上ではあっても、自分たちが何処にいるかは分かった、それが安心へと繋がったのだろう、既に少年の瞼は重たくなりかけている。
 ラルハンが荷物を包んでいた荒布を地面に敷き、横たわった少年の体にぼろぼろの布をかけてやる。それは着込んだ衣服と同じく、飛竜によって蹴散らされた中から拾いあげたものだった。
 粗末な寝床が、レイスに故郷を思い出させる。族長の家に生まれたレイスは自分の部屋も寝台も持っていたが、村の大半の者たちは違った。家族全員が一つの部屋で食事も睡眠もとっていた家もあった。土地が痩せ細り、森から獣の姿はめっきり消え、男たちが出稼ぎで得た貨幣だけが、食料や物資を齎す唯一のものになっていた。
 先程まで震えていた子供の顔が、焚き火の熱で十分暖まったのか、ほんのりと赤みを帯びている。瞼は今や完全に閉じられ、微かな寝息が蕾のような唇からもれていた。
 おそらくこの子は、今まで空腹とも寒さとも無縁だったに違いないとレイスは思った。
(村を出る前のわたしがそうだったように)
 だが、今は良くても、これから旅を続け食料が尽きてしまった時、この子どもはどうするのだろう。そして、空腹や乾きを感じるのは何も人間だけではないのだ。
「それにしても気になります」
 ラルハンが口を開いた。ちらちらと横たわる少年の様子を窺っている。命を狙われ、見知らぬ土地で野宿している割には、少年の顔は穏やかだ。胸は規則正しく上下し、寝息もかすかに聞こえる。かつてない疲労が、緊張と恐れを押し流し、彼を深い眠りにつかせているのだろう。
「なぜああまで力のある刺客が送り込まれたのでしょう」
「あの飛竜は子どもの母親が用意していたと言っていたな」
 エルゼーンの指摘に、ラルハンが小さく息を吐いた。
「さすがに聞き逃してはいないようですね……」
 レイスは誰が何時、そんなことを言ったのか記憶にない。しかしエルゼーンは覚えていた。彼は力が強いだけの魔族ではないのだ。
「詳しくは申し上げられませんが、この方の母君は、この方の命を狙う理由がありません。むしろ守りたいからこそ、あなたが護衛につくのを許したくらいです」
 ラルハンの口ぶりからは、西の者が人間と密接に関わりながらも、人間から距離を置かれ、恐れられる対象であるということが滲み出ている。
 レイスはエルゼーンを窺(うかが)い見たが、彼の鉄面皮な顔は揺るぎもしなかった。
「とてもいやな感じです」
 ラルハンの声はとても小さく低い。眠ったままの少年の耳に、間違っても届かないように配慮しているのだろう。
「竜を操る呪術を身につけている……そんな者は簡単には見つかりません。一体誰が、何に、どのような依頼をしたのか……」
「あなたももう眠った方がいいだろう」
 エルゼーンが言葉を挟んだ。
「少しでも疲労を回復せねば、明日は今日より厳しい状況になるはずだ」
 悩むくらいなら寝ろ……言葉の裏にある意味を感じ取り、ラルハンは苦笑いした。
「そうですね」
「番は俺がする。ゆっくり休むといい」
 わたしもと身を乗り出したレイスを、エルゼーンの腕が無言のままに制す。 
「本当によろしいのですか、番をお願いしても」
「仕事だから当然だ。それに分かっているとは思うが、我々は人間のように毎日眠る必要はない」
 それはラルハンにではなく、むしろレイスに向かって言われた言葉のようだった。
 少年と同じように、ラルハンがたき火の側に横たわろうとしている。エルゼーンの言葉に甘え、睡眠を取るのだろう。
「お前も寝ろ」
 エルゼーンが上着を脱いでいる。
「体にかけるだけでも随分違う」
 レイスに渡された上着は、重みがあった。即ち厚みがあるということだ。
「わたしはいい」
 エルゼーンの上半身は、体が透けそうなほど薄い、白いシャツ一枚になってしまった。この寒さの中で、たとえ彼が寒さを感じないとしても、上着まで奪うのはレイスの気持ちが落ち着かない。
 上着を返そうとし、レイスはあることを思い出した。エルゼーンの左腕に手をかけ、肘まで袖を捲りあげる。
 エルゼーンは眉一つ動かさなかった。
「やはり……」
 彼の左腕はどこまでも白く、無数の血管が透けて見えた。だがどこにも鉄板はおろか、布さえ巻いていない。
 防護するものは何もない。だのに彼の腕には、かすり傷一つないのだ。
(あの時、竜使いは渾身の力で刃を振るったはずだ)
 刺客の刃がなまくらだとは到底思えない。
「まさか」
 剣が通用しないのか。
「お前の思っているとおりだ」
 小枝が炎の中で音を立てた。少年がわずかに身じろぐ。しかし極度の緊張から解放された今、寒さも音も眠りを妨げるまでには至らない。それはラルハンも同様だった。
 ただ一人、レイスだけが再び緊張の中にいる。
(まただ……また読まれた)
 レイスはそろそろと身を離す。エルゼーンの腕に触れていた手が氷のように冷たい。
「……心配するな。心など読めん。だがそのくらいは分かる」
 エルゼーンは捲られた袖を戻し、炎に再び小枝を投げ入れた。
「人間の武器で、魔族に傷を与えることの出来るものはわずかしかない。それは恐らくラルハンも知っていることだ」
 言葉の裏を返せば、ある程度学があれば知り得る知識であるということなのか。
(そうか……それでラルハンが……唯一西の者の弱点である秘石を持っているのか)
 ラルハンはエルゼーンを護衛者としては信用しているむきがある。しかし、彼が西の者であるということは決して忘れていないのだ。
(わたしは本当に魔族を知らない。いや、わたしは世界を知らないんだ)
「もう一つだけ、教えてくれ。目的地のラグリマーダとはどんな所だ」
「ファンディエン王国の王都」
 それはルガから既に聞き、レイスの知識にある。彼と交わした契約書にもあった地名だ。
「南の『魔の森』に最も近い人間の王国だ」
「魔の森……」
「我々の……生まれいずる場所だ」
 レイスが顔を上げると、エルゼーンの黒い瞳にぶつかった。黒目の中に、たき火の明かりとレイスの姿が映っている。いつのまにか縮まった距離に、レイスはなぜか落ち着かなくなった。
「もう遅い。わたしも寝る」
 怒ったように寝そべると、肩に何かがかけられた。薄く明けた目には、真っ黒な袖が見える。僅かに空いた小さな穴も。
(温かい)
 確かに上着一枚でも随分と違うものだ。レイスはそのまま目を閉じた。

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