サザラの右目 ヴァリアの牙

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第2章 1

 夜が明けた。
 レイスが一通り身支度を整えると、計ったように店の女が現れた。昨日応対したやせぎすの女だ。箒(ほうき)を振り回し、レイスを長椅子から追いやると、手際よく掃除を始める。
「ほらほら、さっさと出ておいき。エルゼーンの頼みだから泊めてやったが、ここはね、本来おまえみたいな奴が入れる場所じゃないのさ」
 女の言葉は刺々しい。だがレイスには瑣末なことでしかなかった。
 一晩考えろと言われ、朝を迎えた今、決心が揺らぎもしなかったことがレイスの顔を自然とほころばせる。
「ふん、契約者に選ばれたのかい? それで口づけの一つでもしてもらったと。いいご身分だね。金は払わないでいいときたもんだ」
「いや、わたしは……」
 何もしていない、そう答えかけ、レイスは思い直した。
 『西の者』は血を飲む。だが、それ以上は何も知らない。
(この女はどうも、エルゼーンをよく知っているようだ)
「あいつはこの店で雇われてるのか」
「ふん、それがどうしたね」
 女の態度は相変わらず尖った針のようであったが、先程よりは幾分尊大になり、あからさまに見下した目付きがレイスを不快にさせた。
「別にやましいことは何もないさ。エルゼーンは魔族だからね。まさか魔族を知らないとはお言いでないよ」
 嘲られるのは目に見えていたため、レイスは貝のように口を噤(つぐ)んだ。気づかぬ女は、箒の手を止め、さらに胸をそらした。
「いいかい、よくお聞き。エルゼーンはここでおひいさまたちのくだらない話を聞いてやり、ちょっと抱き締めてやり、接吻してやるだけさ。代わりに金銭と血を貰う。恋愛ごっこの相手をしてやるのさ」
「恋愛ごっこ……」
「おひいさまたちには都合のいい相手さね。何せ人間じゃない。いざ亭主にばれたとしても誑(たぶら)かされたで済む。……おや、えらく顔をしかめてるね。西の者と人間の利害が一致してるんだ。いいことじゃないか。そしてあたしはその場を提供してやってる。むしろ褒めてほしいね」
「まさか、あんたが店主か? 夫はどうした」
「そんなもん、居ないよ」
 レイスは驚いた。独り身の女が一つの店を持つ。そんなことはラゴ族ではまず考えられない。ラゴの女はみな、二十歳になる前には必ず誰かと結婚していた。レイスですら、村での未来を思い描く時、必ず隣に立つ男性の姿があった。
(シャイアス……)
二度と足を踏み入ることの出来ぬ故郷で、彼は今どうしているのだろう。繊細な顔立ちの若者を思い出すと、レイスの心は乱れ、重苦しくなる。
 女は再び箒を手に取ると、先程掃いたばかりの床をもう一度懸命に掃き始めた。
「あたしはね、西の者たちを見るのが好きなのさ。だから儲けは二の次。やつらは、客に接する以上にあたしに優しいんだよ。いいかい、頭の中がお菓子で出来てるような女どもとそうでないのをちゃんと見分けられるのさ。人間の男どもよりもずっと女を見る目がある……」
 床に視線を落としたままの女の表情は、当然レイスからは見えない。ただ、語気の荒さが溢れる激情を如実に物語っていた。
「いいかい、おまえがどんなにエルゼーンと共にあってもね、おまえじゃ、到底あいつの心は奪えないんだよ」
 女は一睨みして、レイスを再び箒で追いやった。
「おしゃべりは終わりさ。邪魔だよ、出て行きな」
 気迫に圧倒され、レイスは言葉を返すことも出来ず追い出された。激しい音とともに閉じられた扉の奥で、かすかに女の声が聞こえた気がする。
 あの娘は、なりこそ汚いが、でも頭の中身は菓子ではないようだ……。エルゼーンが行ってしまう。若い女と一緒に行ってしまう…。
 震える語尾がすすり泣きに変わる。
 いたたまれなくなったレイスは足早にこの場から立ち去ろうとし、立ち止まることを余技なくされた。階段へ向かう廊下の先で、三人ばかり男が談笑している。総じてすらりと背が高く、金髪や栗色の艶やかな髪を腰まで伸ばしている。物腰は優雅で、眼差しには知性の輝きがあり、何より彼らは美しかった。レイスは思わず下を向いた。
 男たちはレイスに気がつくと喋るのを止め、壁際に避け通路を空ける。
「……すまない」
 さすがに黙って通るのは憚られ、礼を口にし足早に通り過ぎると、レイスの背中に幾つかの声がかかった。
「エルゼーンは仏頂面だが、悪いやつではない」
「ちょっとぶっきらぼうだけどな」
「剣の腕は我らの一族でも抜きん出ている。おまえのいい稽古相手になるだろう」
 レイスは振り返りも答えもせず、階段を駆けるように降りた。あの者たちが全てエルゼーンと同じ『西の者』かと思うと、恐れよりも奇妙な気分になった。一見したところ人間と何ら変わらないではないか。
(奴らも血を飲むために、この館に居るのか)
 階段を降りた先に、もう一人、男がひっそりと立っていた。くせの無い長い金髪を背中で緩く編み、顔立ちは女性のように柔和だ。
「あなたがエルゼーンの『候補者』ですね。彼からの伝言です。契約に承諾ならばルガの店に来いとのことです」
「分かった。これから行く。……ありがとう」
 礼を述べると、男の顔に笑みが広がる。牙が僅かに見えたのに、あまりに無垢なその笑顔にレイスは戸惑い、妙に納得した。これならば足繁く通う貴夫人も居るだろう。
 男の醸し出す穏やかな雰囲気に、レイスは先ほどの男たちには尋ねなかった質問をした。
「あんたに、聞きたいことがある。わたしの……わたしのこの右目に何か感じないか」
 布で半分隠されたレイスの顔を見やり、男は緩く首を振る。
「それについては、私は答えられません。特殊な……強い魔力を感じるだけです。何より、これからあなたが共に旅に出る、エルゼーンの方が詳しい答えを持っているでしょう」
「……そうか」
 やはり答えを持つのはあいつなのか。軽く頭を下げてから、レイスは戸口へ向かった。
 男は廊下の奥からレイスを見送った。同時に、小さな美しい馬車が館の前でとまる。
(あの男は客を待っていたのか)
 金髪の優しげな男は柔らかな口調の下に牙を隠し、これから彼らの食事をするのだろう。
 レイスは自身の未来と重ねながら、まず大神殿を目指し、それから、昨日通った道をなぞった。
「よお、遅かったじゃないか、レイス」
 ルガはカウンターに片肘をつき、タンブラーを傾けていた。酒の匂いが鼻をつく。
「その様子じゃ、答えは出たようだな」
「エルゼーンはどこだ?」
「やつはまだまださ。朝の光は眩しすぎて、『西の者』には辛かろう。ま、何事も慣れだと思うがねぇ。昼までには来るだろうさ」
 まあ座れと促された椅子に、レイスはおとなしく腰掛けた。
「どうだった、初めて目にする魔族は」
 問われてレイスは一瞬だけ口ごもった。
「大して人間と変わらなかった。だが『西の者』というのは血を……」
「魔族にもいろいろ居る。だが、世界のあらゆることに詳しいぞ、レイス。そしておまえは契約する気になった」
 レイスはルガの目を真っすぐ見つめ返した。
「そうだ」
 ルガがにんまりと笑った
「いやはや、助かった。誰も他に候補者が無くてな。参ってたところだ」
 これで依頼主にも顔が立つと、ルガは至極満足気に何度も頷いている。
「さてそうと決まれば、書類を書いてもらわなきゃならん。えっと、文字は読めるか」
 レイスが頷くと、ルガはカウンターの下から古びた用紙を取り出した。
「珍しいな、紙か」
「紙くらいあるさ。ドーリエルには紙も食べ物も金さえ出せばいくらでもあるからな」
 用紙には、レイスがこれから結ぶ契約の内容が書いてあった。
「その下の空欄に、おまえさんの名前を書いてもらうんだが、自分の名前は書けるよな。普通は姓名を書くが、姓がなければ、村の名前か父親の名前を添えてくれ。この書類は俺しか目を通さないし、契約が終われば燃やす」
 おまえは俺に名を預けるんだと渡された羽ペンを、レイスは暫(しば)し見つめた。
(本当の名をここに書いた方がいいのか)
 エルゼーンの言葉が蘇る。レイシアという魔術師を探していると。
「レイシア……」
「えっ、まさかおまえが魔術師レイシアか?」
 レイスの心の内から零れ落ちた言葉を、ルガは聞き逃さなかった。
「違う、エルゼーンが」と否定しかけると、最後まで言葉を聞き終わらない内に、ルガがそうだよなあと髭をしごいた。
「本当のレイシアなら、俺みたいなじじいに怯えの色を見せたりしねえもんな」
 それにおまえさんは魔術は得意そうには見えないしと付け加える。
 ルガの言葉は皮肉にも取れる。だが、レイスにはもう、怒りは湧いてこなかった。
 昨日、初めて会ったエルゼーンに思わず吐露していたが、それで分かった。
(わたしは、わたしに怯えている)
 強くならなければならない。自分が何なのかを突き止めるためには。
「レイシアとはどんな奴なんだ」
 レイスの問いに、ルガはうーんと首をひねるばかりだった。その様子は言葉を捜しているように、見えなくもない。
「そうだねえ。全てが謎の魔術師だもんで、俺もよく分からんのさ。何せ歳も分からんし、何処(どこ)の生まれかも分からん。男か女かさえ不明ときたもんだ。人間であるのは確からしいがね」
(そんな奴をなぜエルゼーンは探しているのだろう)
「さあさあ、高いインクが乾いちまう。契約するなら名前をちゃんと書いてくれよ」
 レイスの本当の名と同じ名を持つ魔術師レイシア。
(どうせわたしには関係の無いことだ)
 レイスはたどたどしい文字を綴った。父親の名を記すのは抵抗があったため、一族の名を添える。
「ラゴ族のレイス……ねえ。こりゃ驚いた。ラゴの血筋が途絶えてなかったとはなあ。どうりで腕が立つはずだ」
「わたしの一族を知っているのか」
 驚きが溢れ、同時にレイスは村から追っ手がかかっているかもしれないと、初めて思い至った。
(でも、わたしは死んだと思われているはずだ)
 レイスの驚愕を余所(よそ)に、ルガはただただ感慨にふけっている。
「知っているもなにも、有名な傭兵団さ。一騎当千……まあ、かなり噂に尾ひれがついてるだろうがな。大きな戦が起こるとラゴの兵士が必ず現れ、そしてラゴの居る国が勝つ。ラゴの長が戦の勝敗を予見して、勝てる方にしか兵を送らないなんていう噂が、まことしやかに流れたもんさ。だが、ラゴの女が剣を振るうとは初耳だねぇ」
 それは初耳だろう。恐らく、ラゴの女で最初に剣を握ったのはレイスであるはずだから。
(そして長は本当に予見していたのだ)
 ラゴの勇猛なる男たちはある日突然村を出て行き、そして何カ月か何年かして戻ってくる。その間に命を失う者も幾らか居た。
 女たちは何も知らされていなかったのだ。ただ、男たちが持ち帰った物資と金貨で、彼らがどこかで働いていたことだけを知る。
 ルガはレイスの名の下に自身の名を綴りながら、カウンターの下から柄の長い優雅なパイプを取り出した。
「そのラゴの村も三十年前に……いや、それは言ってはならなかったな」
(三十年前)
 思い当たる出来事はひとつ。レイスの父、エンゼが族長を継いだのが丁度そのころのはずだ。
(父はすでにその時、何かを起こしていた?)
「難しい顔をしなさんな。ここじゃ、名前は聞くが素性まで話す必要はない。俺が悪かった。おいターニャ、この子にお茶でも入れてくれ」
 呼びかけに応じて、老婆が一人入って来た。ルガと同様皺に覆われた顔と手足、小さな瞳は輝き、口元にはほほ笑みが浮かんでいる。
「偉そうにあたしを口で遣って! はい、どうぞ。娘さんなら甘い飲み物がいいでしょう?」
 滑舌はあまりよくないが、ターニャは闊達(かったつ)だった。レイスの前に大きな取っ手のついたカップを置く。
(わたしが女だと分かるのか……。そういえば、店主の女も……)
 エルゼーンを含めた西の者たちを扱う店……店主の女もまた、レイスのことを最初から女だと看破していた。
(わたしは、女に見えるのか)
「さあさあ、遠慮はいらないわよ。お飲みなさい」
 ずっと触れていなかった紛れもない労(いたわ)りを含んだ優しい口調。レイスは促されるまま甘い香のする見たこともない茶色の液体に口をつけた。美味しいという感情が膨れあがり、レイスは無心に飲み干そうとして舌を火傷する。
「美味しいかい? でも慌てるのはよくないねえ」
 レイスの前にターニャがパンを置くと同時に、扉が軋んだ音を立てた。
「おや、早かったな、エルゼーン」
 黒衣を身に纏い、目深にフードを被ったエルゼーンは、昨日店を出て行った時のままに見えた。レイスの姿を認め、フードを脱ぐ。
「契約は成立か」
「成立だな」
 ルガがパイプを燻らしながら、レイスに片目を瞑ってみせる。
「まあ仲良くやりな。あと金のことだが、前金に不満がありゃエルゼーンにせびるといい。おまえの雇い主は奴だからな」
「俺はそこまで裕福ではない」
 エルゼーンの憮然とした様子に、レイスは朝方、館で会った男たちの言葉を思い出した。
「おや、今、レイスが笑ったぞ」
 ルガが頓狂な声を上げた。
「いや、わたしは……」
 慌てて否定しようとしたレイスをルガが制した。
「これから、守らにゃならんお客に会うんだろう? そうやってにこにこしてた方がいいぞ。ちょっと癖のあるお人らしいからな」
「癖?」
 レイスが問うと、ルガは意味ありげに笑うだけだった。
「そりゃ、会ってからのお楽しみさ。まあ、ゆっくりパンでも食べて……」
「今から行く」
 エルゼーンの声は低いがよく響く。ルガは驚いたようだった。
「今からか? でも、出発は明日のはずじゃ……」
「予定が変わった」
 エルゼーンの答えに、ルガは髯をしきりにしごいた。
「ああ、それでこんな朝っぱらから起き出してきたんだな。まあいいが……予定が変わるってのは、予定していたその後の行程が全て変わるということだ。充分に注意しときなよ」
 ターニャに見送られてルガの店を出ると、エルゼーンは再びフードを被り、レイスを誘って通りへと向かった。
「お客とはどういうやつだ」
 レイスの疑問にエルゼーンは歩きながら答える。
「俺もまだ実際には会っていない。ドーリエルの南にあるパシュウィンという町に居る」
「ラグリマーダという所まで行くのだろう?」
「そうだ」
「……何日かかる?」
「無事にたどり着くまでだな」
 彼の答えが旅の長さを物語っていた。その間、あの赤色の店の主の女は、エルゼーンの帰りをずっと待ち続けるのだろうか。
(多分、愛していたのだ。この男を……)


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