サザラの右目 ヴァリアの牙

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第1章 2

 王都ドーリエルは、高い城壁で囲まれた町だった。
(初めて見るはずなのに……)
 見覚えのあるこの町を、レイスはあの河原で見ていた。あの時、脳裏に浮かんだ情景と寸分も違わないことに驚愕する。
「すげえ町だろう」
 御者は誇らしげだった。
 溢れる物資の豊富さ、街路を埋め尽くさんばかりに道行く人々。どれをとってもこれまで通ってきた町とは比較になろうはずもなく、また、人々の顔に笑顔がのぼっているところを見れば、圧政にも困窮にも無縁のようにレイスには思えた。
(この広い町のどこかにルガが居るのか)
 馬車は正門から入ってすぐの一区画で乗客を降ろした。あの銀の髪の女もまるで何事もなかったかのように、降りて行く。金さえ貰えばもう話すこともないのだろう。
 レイスもまた乗客たちと共に馬車を降り、契約の終わりを御者に告げた。
「まあ、それが約束だったからなあ」
 別れ際に御者は名残惜しげにつぶやき、金貨を一枚レイスに渡した。
(引き留めたりはしないのだな)
 心の中でレイスは僅かばかり落胆した。引き留められても自身を知りたいという欲求を退けることは出来ないだろう。そうは思っても、なぜか寂しさが胸を過ぎった。
 御者と別れ、レイスは金貨を懐の奥底に縫い付けた袋に収めた。
(ルガを訪ねよう)
 銀髪の女も既に姿が見えない。この町で、またレイスは一人きりになったのだ。 
(まず、大神殿を探さなくてはならないな……)
 露天商であぶり肉を買う傍(かたわ)ら店の主人に尋ねると、主人はレイスの顔を穴の空くほど見つめてから「おまえどこの田舎から来たんだ」と訝(いぶか)しげにいった。
「この町で大神殿ほど分かりやすい所はないぞ。ほれ、ここからでも見える」
 主人は大通りの最奥をまっすぐ指差した。空色の美しい建物がかすかに見える。背後には恐ろしく高い青色の塔が聳え、より一層、建物の特異さを強調していた。
「あれを目指せばいいのか?」
「おうよ。大いなる青の木。地母神ウェイユルーの娘」
 主人の発した言葉の意味を、レイスは解せなかった。しかし、それを口にすれば、また、彼の不審を煽(あお)りかねない。レイスは口をつぐみ、黙って頭だけ下げた。
 大通りを進むにつれ、大神殿はその堅牢で優美な姿をはっきりと現し始めた。
 人の背丈の数倍はある高い土壁が、巨大な空色の建物を囲んでいる。紺色の屋根からは無数の尖塔が空を刺しており、窓硝子が陽光を反射していた。しかし何より、レイスを圧倒したのは、その建物の背後に聳える天を突くほどの巨木だった。
(塔では無かった……)
 青色の塔だとレイスは思っていた。だが実際には、水色の幹と真っ青な葉を持つ、紛れも無い「木」であった。現に今、木の葉が風に揺れ、時折はらりと落ちてゆく。
 我知らず見入ってしまったレイスは、当初の目的を思い出し首を振った。
(ルガとかいう奴の店を探さなくては…)
 銀髪の女の言葉に沿って、それらしき細い路地を探し出し、レイスは一歩踏み入れた。喧噪が急激に遠のき、粘りつくような湿気が腕や足にまとわりつく。
(赤い扉……)
 目立つ扉は確かにあったが、板は長年の湿気と虫によりかなり痛みが激しく、取っ手には錆が浮き、今にも崩れそうだった。女に言われた通り扉を叩いたが返事はなく、右手に剣を握り締めたまま、レイスは慎重に扉を押し開けた。
 室内は意外なほど整っていた。というより整えるほどの物が無かった。奥のカウンターの前に椅子が一脚と、その手前に机と数個の椅子が無造作に置かれているだけだ。
「おまえさんが『一つ目レイス』かね?」
 嗄れた男の声がした。剣に手をかけたまま、カウンターを凝視すると、よっこらしょという掛け声とともに、真っ白な髪と髭を生やした老爺がどこからともなく現れた。
 レイスの視線に鋭いものが混じる
「おまえがルガか? なんでわたしの名を知っている」
 全てを見透かしていたかのような銀髪の女の顔が、レイスの脳裏に浮かぶ。
 堅い表情のレイスとは対照的に、老いた男は愉快そうに髭をしごいた。
「ほほう、じゃあ、やっぱりレイスなんだな。これはこれは、思ったよりもずっと別嬪(ぺっぴん)じゃないか」
(このじじい、目が見えてないな)
 レイスは歩み寄り、カウンターを拳で叩いた。手加減したつもりだったが古くなった木は僅かに窪み、埃が霧のように舞い上がる。
「もう一度聞こう。おまえがルガなのか? そしてわたしの名を知っている訳を話せ」
「乱暴な奴だな。俺はルガだよ。おまえさんの名についてだが……裏じゃかなり通っているのさ。知らないか?」
 老いのために手も顔も皺に埋もれているルガのその青い瞳は生気に充ち、レイスは一瞬、相手が老人であることを忘れた。
「……裏で何が通っているんだ?」
 頬杖をついたルガは笑ったようだった。
「片目で細腕なのに滅法強いってな、評判なのさ。ゲニ団の頭をぶっ殺した上に、その残党どもを二度も退けたっていうじゃないか。おかげでゲニの荒くれどもはかなりおとなしくなってくれて、俺も真っ当な奴と仕事がしやすくなった」
 初耳だったが、表情には出さず、レイスは柄を握る手に力を込めた。
「それだけか」
「そう、怖い顔をするな。剣もな。こんな老いぼれの何をそう恐れる。おまえさんの腕なら、俺なんぞ相手にもならんだろうが」
 ルガは掛けろと椅子を勧めたが、おとなしく従うことなどレイスには出来なかった。
(わたしには怯えがあるのか……)
 銀髪の女にも同じようなことを言われた。
 ゆっくり目を伏せると、壁に叩きつけられ、頭から血を流して横たわる父親の姿が鮮明に浮かび上がる。老いた体は折れそうなほどに細く、深い皺が全身を包んでいた。
(それをこの腕が突き飛ばし、殺したのだ)
 息が乱れた。吐き気が込み上げる。押し込めていた記憶がレイスの中で再び暴れた。
(わたしは、化け物なのだ。右目に入っている何かがわたしを変えた)
 怯えも、苛立ちも、全て右目がもたらしたものだと思うしかなかった。そうして今まで自らを納得させてきたのだ。
(怯えなどない。あるものか)
 沈黙したままのレイスに、老爺は少しだけ柔らかい微笑みを浮かべた。
「とにかく掛けるといい。あとこれをお飲み」
 差し出された木製の器には赤い液体が注がれている。微かだが、酒の匂いが鼻をついた。
 レイスは動かなかった。彼女の左目は頑迷な意志を顕著に示し、若い顔は、褐色の肌を通してなお紅潮していることが分かる。
 ルガはため息を一つついて、赤い液体を飲み干した。
「毒も薬も入ってはおらんよ。……噂の『一つ目レイス』は短気かと思いきや、意外にも慎重派なんだねえ。まあいいや。おまえさん、俺に仕事を貰いに来たんだろう。ちょうどいいのが一つあるがどうだい?」
「……内容を聞いてからでないと、答えなど出せるはずがない」
 堅い表情を浮かべたままのレイスとは対照的に、ルガはくつくつと笑いを漏らした。
「そりゃ、まあ、そうだ。中身も分からず、食いついてくるような性急な奴には出来ん仕事だしな」
 頭一つ身を乗り出し、ルガは声を落とす。嗄れた声は、明瞭にレイスの頭に響いた。
「難しいが単純な仕事だ。ある人物を無事にファンディエン王国王都ラグリマーダまで連れて行くこと。まあ、簡単に言やあ護衛だな」
 同じ護衛ならば、まだあの馬車に雇われた方がましだろう。
(これでは話が違う)
 あの女は銀貨の代償にこう言ったではないか。
『魔力のことは魔族に聞いたらいい』と。
 女の言葉を反芻し、レイスはルガに食ってかかった。
「わたしは魔族がらみの仕事がしたい。そのためにわざわざこんな所まで来たんだ。何かそういうものはないのか」
 ルガの目が一瞬だがきらりと光った。レイスの目にはそう映った。
 飲み干した空の器を脇へ押しやり、ルガは一層声を低くした。
「そりゃ願ってもないね。いいか、この護衛の話だが、前金が金貨五枚、成功報酬は金貨十枚だ。かなりいい話だが、ただし、主導権はおまえさんにはない。なぜなら……」
 ルガの声はもはや囁きに近い。レイスは呼吸を殺して耳を傾けた。
「すでにこの仕事を受けているのは魔族なのさ。ただ、奴からの要望でな、腕のたつ女を同行者に欲しいという。出来れば若い方がいいとさ」
「断る」
 即答するレイスに、ルガは慌てて情報の補足をした。
「いや俺の説明が悪かった。若い方がいいのは、体力が豊富だからだ。女が必要なのは、そりゃ奴が『西の者』だからさ」
「西の者?」
 訝しむレイスを穴の開くほど見つめ、ルガは心底おかしそうに肩をゆらした。
「こりゃ、また、辺鄙(へんぴ)なところから出て来たんだね。いい、いい、会ってみりゃ分かるさ。奴に直接条件を聞いて、それから決めてもいいしな」
 魔族の名はエルゼーン。とある店に居るが、ルガの名を出せば会えるという。
(父の名に似ている……)
 レイスは簡単に礼を述べ、件の魔族が居るという店に向かった。
 王都というだけに広大だが、大通りを中心に町並みは整然としているため、ほとんど迷うことはない。あの堅固な城壁といい、大神殿の壮麗さといい、ヴァーニ王国がどれだけ豊かな国なのかは、閉鎖的な村で育ったレイスにも容易に想像できる。
(なのにこんな国に、平然と化け物が住んでいるのか)
 魔族が居るという店はすぐに分かった。ルガの言うとおり、深紅の壁面が他の建物と一線を画している。繁雑で薄汚い通りに面してはいたが、意外なほど人の行き来は激しく、また店の前には美しい小型の馬車が停まっており、不釣り合いな印象をレイスに与えた。
「ルガの紹介で、エルゼーンに会いにきた」
 店の戸を叩きそういうと、現れたのはやせぎすの女だった。無愛想に「そんな大声を出されちゃ迷惑だ」とのたまい、レイスの返答も待たずに足早に先導する。
 妙な雰囲気の店だった。まず、店と聞いていたのに売り物がない。階段を昇った先には長い廊下があり、等間隔に深紅の扉が並んでいる。
 当惑気味のレイスをよそに、女は「あたしゃ忙しいんだよ」とひとりごちた。
「一番奥がエルゼーンの部屋さ。ついでにもう時間だって言ってきておくれ」
 それだけいうと、再び足早に階段を降りていった。
 後にはレイスひとりが残された。
(わざと一人きりにされたのだろうか)
 レイスは剣を握り締めた。目を閉じ、右目が何を見せてくれるのか期待したが、扉と同じ赤い色が浮かんだだけだった。
 最奥の扉の前に立ち、意を決して戸を押すと、簡単に扉は開いた。
 広い部屋だった。美しい調度品にはどれも見たことのないような細かな彫刻が施され、どっしりとしたカーテンが窓を隠している。
(魔族は人の姿をしているというが)
 人の姿をした者は二人いた。一人は薄衣を纏った女で、もう一人はその女を腕に抱く男。女の首筋に顔を埋めていた男と目が合うと、レイスの全身に戦慄が走った。
「驚いたな。……一つ目レイスが来るとは」
 女を離し、長椅子から立ち上がった男は、極めて人目をひく姿をしていた。すらりと背が高く、はだけた上着からのぞく肌は白いを通り越して蒼くすら見える。肩よりも長いゆるく波打つ髪は漆黒で、彫りの深い顔の青白さを一層際立たせていた。だが、何よりもその眼……妖しげな光を湛える黒い瞳は深淵を思わせる。
 レイスは剣を抜いた。振り返った女が、レイスを目にし、驚きの表情を浮かべている。
(本当に化け物だった)
 魔族の名はエルゼーン。ならばこの男がそうなのだろう。レイスは見ていた。彼の口の中にあった、人間には有り得ない二本の鋭い牙を。
 レイスはゆっくりと間合いを測った。エルゼーンがレイスの名を知っていたことも、彼の艶めかしくすら見える容姿も、既にどうでもよかった。魔族の唇から今だ滴る真っ赤な血が、レイスに剣を構えさせた。怯えながらも長椅子に今だしどけなく座る女の首には、おそらくこの魔族が立てたであろう牙の跡がくっきりと残り、滲(にじ)み溢れた血が深紅の筋となって女の着衣を染めようとしている。
 顔も衣服も真っ赤に濡れた父の顔が、レイスの脳裏によみがえった。
(とても話し合いの出来る相手ではない)
 嵌(は)められたのだとレイスは思った。若い女が必要なのは、この化け物が人食いだからだ。腕のたつ者が欲しいとは、レイスを罠に陥れるためのルガの即興だったに違いない。
(化け物ならためらいなどいらない。……わたしは人間だって殺している)
 斬りかかろうとした。でなければ、自分が食われるとレイスは自身を鼓舞する。だが、どうしても動けなかった。
 エルゼーンには隙が無かった。剣先を向けられているというのに、焦りも恐れもない。
「一つ目レイスは、丸腰の者を斬るほど卑怯者ではないはずだ。剣を降ろせ」
 赤く濡れた唇を嘗(な)め、顎をしたたる血を指先で拭いながら、彼はレイスに向き直った。
 レイスは混乱した。指についた血まで丹念に嘗めているというのに、男の黒い瞳には紛れもない理性が浮かんでいる。
「それとも、俺が怖いのか」
「うるさい」
 強い怒りがレイスを踏み出させた。闇雲に剣を振り上げ斬りかかる。身をかわすエルゼーンの動きは確かに見えたが、それは今まで相対した誰よりも速い。
(追いつかない)
 振り下ろした剣は長椅子に当たり、エルゼーンはすかさずレイスの手首を左手で捕らえた。女が悲鳴を上げて長椅子から床に転がり落ちる。レイスは抗おうとしたが、逆に剣もろとも引き倒され、長椅子に仰向けに寝転がされる形となった。剣を握る右手は男に押さえつけられたまま、首には大きな手が伸び、包み込むように軽く握られる。首に触れる男の手の、ぞっとするほどの冷たさにレイスは耐え切れず、自由な左手で振りほどこうと試みた。だが、まるで鉄の枷(かせ)でも嵌められたかのようにびくともしない。
「暴れるのは得策ではないな。俺が力を込めれば、こんな細い首はすぐに折れる」
 恐ろしい力だった。首も手首も動けぬほどの力で握られているのに痛くも苦しくもない。それはこの男が手加減をしているからだ。
 それほどまでに力の格差があるのだ。
(野盗たちには勝てたのに)
 男たちの剣を、レイスは難無く撥ね除けた。右目はレイスに人間離れした力を与えてくれた。だが、それはあくまでも人間と比較しての力だったのだ。
(この男は魔族……人間ではない)
 食われると思った。床に這いつくばり、恐怖に目を見開いている女も、レイス自身も。
「……もう大丈夫なのですか」
 レイスに向けられた言葉ではなかった。女はゆるゆると立ち上がり、そろそろと壁際へと後ずさる。
「大丈夫です。もう日が暮れる。迎えの馬車も来ているはずだ。帰った方がいいでしょう」
 その言葉は男から発せられたものだった。
「本当に何て恐ろしい」
 かすかな声にレイスは打ちのめされた。女はほかの誰でもない、レイスに脅えていたのだ。
 長箪笥から襟の高い長衣を取り出すと、落ち着きを取り戻した女は素早く首回りの血をふき取り、薄衣の上に羽織った。首の咬み跡も血の染みた薄衣も、外からは全く見えなくなる。女は足早に戸口へ向かうと一度だけエルゼーンを振り返り、それからレイスを睨みつけて部屋を後にした。
 扉が閉まると、レイスは魔族と二人きりになった。
(一体どういうことだ)
 レイスには首を咬まれ平然としている女が理解できなかった。ここがどのような場所かは、ようやく合点がいったが、それでも、村の噂とは違い、客は女の方のようだ。
 ルガの言葉が蘇る。化け物かどうかは会えば分かると。
(わからない、わたしには……)
 レイスは強く唇を噛んだ。
「『一つ目レイス』は予想以上に短気だな」
 手首を押さえ込んだまま、エルゼーンはレイスを見下ろした。大して力を込めているようには見えない表情が、レイスを苛立たせ、そして、恐れさせた。
(あの時も抗うことさえ出来なかった)
 目を抉られる感覚が蘇り、右目が痛む。
「その様子では俺の客になりきたのではあるまい。ルガの話を受けたのだな」
 ルガの名前が出たことで、レイスはさらにきつく唇を噛んだ。
 嵌められたのではなかったのだ。
「……そうだ」
 言葉を発したのと同時に唇が僅かに切れて血が滲む。
 エルゼーンが見つめていた。彼はレイスの唇しか見ていなかった。
 恐らくその血を。
 半開きの口の間から肉食獣よりもなお鋭い牙が見え、レイスは恐れた。
「おまえは何だ。何でわたしを知っている?」
 あの銀髪の女も、ルガも、そして魔族すらもレイスの名を知っている。
 怖れがレイスの歯をかすかに鳴らした。
 鉄の枷のように感じられた男の手が、不意に離れる。レイスは呆然と見上げた。握り締めていた剣が、乾いた音を立てて床に転がる。
 何事もなかったかのごとくエルゼーンは立ち上がると、はだけた上着を脱ぎ捨て、白いシャツを手に取った。
「レイシアという魔術師を知っているか」
 逆に問われたレイスはひやりとした。レイシアは彼女の本当の名だが、しかし、魔術は扱えない。
「知らない」と答えるレイスにエルゼーンはそうだろうなと独白のように呟き、袖に腕を通した。
「お前を知っていたのはレイシアを探していたからだ。レイシアの男名がレイスだからな」
 エルゼーンは上着の留め具をかけ直し、身支度を整え始めた。
「俺が何だという質問だが、もう分かっているのではないか? おまえは先ほどからずっと震えている。俺に恐れを抱いている。残念だが、そんな人間と契約は結べない」
(契約……)
 銀髪の女の言葉が、レイスの脳裏を過った。
『魔力のことは魔族に聞くといい』
 レイスは乱れる呼吸を極力抑えた。
「……あんたは今、わたしを人間だといった。だが、わたしは自分が人間なのかどうか分からない……分からないんだ。教えてくれ。この右目は一体何なんだ」
 契約など、もうどうでもよかった。この男が魔族ならば何か知っていてもおかしくない。藁(わら)をもすがる思いで尋ねると、エルゼーンは黙したまま、長椅子から身を起こしたレイスの前で身をかがめ、視線を合わせた。真っ黒な瞳の底で瞬く不可思議な光、端正がゆえに冷たく映る表情、そして今なお血で濡れているかのような唇が、レイスの落ち着きを奪う。
「……おまえは契約をしに来たのではなかったのだな。……その右目のことだが本来ならば、我々魔族に属するものとだけは言っておこう」 
 それだけいうと、エルゼーンは立ち上がり腰のベルトに剣をさした。柄にも鞘(さや)にも美しい模様細工が施された長い剣だ。
「魔族に属するもの?」
 レイスの問いには答えず、エルゼーンは長い剣を隠すように漆黒の外套を身に纏(まと)う。全身を包み込む上に、フードも目深に被ると、あの銀髪の女を思い起こさせた。
(やはり何か知っているのだ)
 身を翻(ひるがえ)し戸口に向かう男に、レイスは必死に食らいついた。
「わたしはルガの紹介で来たんだ」
「知っている。店の者には契約者の候補だけ通すようにと言っておいたからな」
「契約者の候補……」
「契約の内容は、普段、魔族……『西の者』と接する機会の薄い者には耐え難いものだ。だからルガも無理やり契約は結ばせない」
 落ち着いた低い声は、レイスが帯びた熱をゆっくりと冷ましてゆく。
(耐え難いもの……)
 レイスはごくりと喉を鳴らした。
「おまえは契約内容をルガから聞かなかったな。そして『西の者』も知らないようだ。だから俺に剣を向けた。違うか?」
「……そうだ。会って直接聞けと言われた」
 再び硝子(ガラス)のような黒い瞳がレイスを上から下まで眺め回す。男は小さく息を吐いて扉を開けた。
「『西の者』とは吸血族だ。人間の生き血が糧となる。――契約者は、護衛が終わるまで俺に定期的に血を吸われることになる」
 汚らわしさとおぞけが、レイスの全身に鳥肌を立てさせた。
「だから、おまえには勤まらない」
「何を――!」
「怒るな。俺の言い方が悪かった。人には決して譲ることの出来ないものがある。俺にもな。おまえの反応の方が一般的だ」
 男は背を向けたまま出て行こうとする。
 右目が痛んだ。レイスは目を閉じた。エルゼーンと共に歩く自身の姿が、瞼の裏にうっすらと映る。行く道を示された気がした。
 理由のない焦燥が、閉められようとした扉に手をかけさせた。訝しむエルゼーンには目もくれず、彼の漆黒の外套を掴み、レイスは絞り出すように言葉を口にした。
「わたしは、おまえの条件を飲む。頼む、共に行かせてくれ。わたしほど腕の立つ女はそうは居ないし、この右目が危険を回避してくれる」
 エルゼーンは振り返り、後ろ手にゆっくりと扉を閉めた。フードを外すと、黒い髪が青白い顔や首筋に影のようにからみつく。
 レイスは落ち着かず、視線を外した。
「おまえの右目には俺も興味がある。俺の予想が当たっていれば、それは本来、人間が持ってはならないものだからだ。だが」
 エルゼーンの顔がレイスに近づく。開いた唇の間から、鋭い犬歯がのぞく。
 首を血だらけにした女の姿が脳裏に浮かび、赤く染まった父の姿が重なった。その刹那、レイスの身は意に反して小刻みに震え出した。
 魔族は一歩退いた。
「おまえとは旅はできない」
 震えを拒絶と彼は受け取った、それがなぜかレイスには耐えられなかった。
「待ってくれ」
 反射的にレイスはエルゼーンの腕を取った。震えがどこから来るのか、レイスは知っていた。それと向き合う準備が今まで出来なかっただけなのだ。
 堰(せき)を切ったように言葉があふれる。
「わたしは……わたしは確かにあんたが怖かった。おぞましくさえ思った。だがそれ以上に、わたしは…わたしが怖い……あんたよりも、自分が怖いんだ。……わたしは人殺しだ。二人も……殺したんだ。人殺しの血をあんたは飲むことになる」
 レイスはエルゼーンを見上げた。彼の唇は閉じられ、恐ろしい牙は姿を隠していた。肌が青白いとはいえ、彼の端正な容姿と、理知的な表情は、どう見ても人間にしか見えない。
(魔族であるというこの男よりも、わたしの方が化け物だ)
 レイスは右目を覆い隠す布に触れた。異物によって目の周囲は腫れ、いまだひく気配もない。そして右目から得た人間離れした力で、人を殺した。
 声もかけない馬車の客。野盗たちにさえ、恐れられた異常な力。人の良さそうな御者も内心は脅えていたのかもしれない。
「わたしが化け物なんだ」
 見つめる床が、揺らいでかすむ。
「この右目が何なのか、それが知りたいだけなんだ……」
 悔しさと情けなさがとめど無く湧きだし、自身の運命が呪わしかった。
「レイス」
 低く抑揚のない声が呼びかけた。
「化け物なら……心のない怪物ならば、自身を卑下し悔恨の念に囚われたりはしないだろう」
 驚きがレイスの顔を上げさせた。エルゼーンは無表情に見えたが、言葉は胸に響いた。
「俺は、これからどうしても会わねばならん人がいる。レイス、お前は一晩ゆっくり考えろ」
「わたしは……」 
「……俺としても、おまえと契約を結びたい」
 瞠目(どうもく)するレイスには目もくれず、エルゼーンは再びフードを被り、踵を返した。
「一時の激情が、判断を狂わず場合もある。ゆっくり考えてから答えを出せ。……泊まる所が無ければ、ここで寝るといい。食事はそこにある。安心しろ。誰も来ない」
 相変わらず感情のこもらない口調だが、裏は感じられなかった。問いかけの言葉を発する事も出来ず、目の前で閉じた扉から遠ざかる足音をレイスは一人聞いた。
 床に落ちたままの剣を拾い上げ、長椅子に腰を下ろす。
 部屋は一人で居ると、無用に広い。改めて周囲を見回すと、小さなテーブルの上に、手付かずのパンや果物が入った籠が置かれていることに気づいた。その脇にはたっぷりと水の入った水差しが、真鍮のコップとともに置いてある。
(これがあいつの言った食事か)
 目を閉じる。右目が痛む。瞼の裏に浮かぶ魔族の男の顔には、一つの歪みもない。顔の造りではなく、その表情にくもりが無かった。
(血を吸われることは確かにおぞましい。だが、目を抉られるほうがずっとおぞましい)
 空腹を覚え、レイスはパンを手に取った。柔らかく、香ばしい匂いが鼻をくすぐる。口にすると、たっぷりと練り込まれたバターが舌の上で踊り、レイスは一個目を平らげたあと、すぐさま二個目に取り掛かった。
(美味い)
 一通り空腹を満たすと疲れがどっと押し寄せた。
 これから、勝手の分からぬこの広い町で、宿を探すことは困難を要するだろう。ならば、今夜はエルゼーンの言葉に甘える方が良策のように思えた。
 カーテンの隙間から僅かに差し込む光は既に茜色に染まっている。窓の外を覗くと、黒い外套に身を包んだ背の高い男の姿が見えた。
 夕闇の中に溶けてゆくように、彼の姿は通りの奥へと消えて行った。
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