小説月下の夜想曲
† 第8章 †

第 7 章

「俺は、知ってる!この女は魔女なんだ」
 何かに憑かれたように叫ぶ男と、遠巻きに家を取り囲む人々の群れを目にしたとき、リサは来るべき日がやってきたことを悟った。

「俺は見たんだ。こっ、この女の手から水が沸き出ているのを……」
「それは本当ですか、リサ」
 彼女の小さな家の扉を塞ぐようにして立っている男の脇から、聖書と十字架を手にした神父が現れた。
「わたしは……」
「神父さま、この女は手から出した水を薬草に交ぜてやがったんです。俺の女房はそれを飲んだせいで……」
 リサは顔を伏せた。
 男の妻は死に瀕していた。
 他の村を襲ったものと同じ病に彼女は犯されており、その顔には既に死相が出ていた。リサは男に懇願されて薬草を渡したのだが、十に一つの望みすらないことは分かっていた。
 奇跡の水といえど、消え行く命を無理やり繋ぎとめることなど出来はしない。 男の妻は薬草を飲んでからすぐ、息を引き取った。
「俺はずっとこの女が尻尾を出すのを待ってたんです、神父さま。そしたら今日の明け方、俺は見たんです」
 リサは沈黙を続けた。ここ一週間、男がこの家の周囲をうろつき、幾度となく窓から中を伺っていることを彼女は知っていた。
 城へ帰ることも出来ず、薬草に『水』も交ぜることが出来ない。だが少しでも早く人々に飲ませなければ、伝染病は確実にこの村を廃墟にさせることだろう。
 リサはとうとう今朝、水をつくった。男が見ているかもしれない危険は承知の上だった。

 まさか一時間もたたない内に、こんな状況になるとは、思いもせずに……。
「この女は、俺たちに毒を飲ませて、皆殺しにする気なんだ」
 神父にすがりついていた男は、なおも泣きわめく。神父は眉間に皺を寄せ、一時考えあぐねてから、十字架を掲げかけた手をおろした。
「わたしは、リサの薬草が人の命を救うのを何度も見ました。……ダルキス、あなたは妻の死以降、随分ふさいでいたようですね。だが、精神的に参っているからとはいえ……」
「神父さま!おっ、俺がこの女に逆恨みしているとでも……」
 神父の言葉に男は逆上した。
「俺が化けの皮を剥いでやる」
 男は制止する神父の腕を擦り抜け、リサへと掴みかかった。
 その瞬間、男から、そして遠巻きにその様子を見ていた村人から、鋭い悲鳴が上がる。
「化け物が……」
 神父の震えた唇は、それだけしか言葉を紡げなかった。
 突如として現れた恐ろしい異形の魔物が、男の首を締め上げている。つい先程まで怒りで真っ赤であったはずの男の顔は、次第に紫色になり、みるみるうちに彼の手足から力が抜け落ちてゆく。
 リサには、見過ごせなかった。
「おやめなさい」
 強い声だった。ガラスのような瞳をした魔物は、その一言で男を離した。
 静まり返った周囲に、男が床に落ち、激しく咳き込む『音』だけが響き渡る。
 誰も動かなかった。ただ、小さな小屋の中を誰もが凝視した。

 魔物はリサを守るように男の前に立ったままで、時折彼女の方を見ては、耳障りな声でないている。
 全ての人々が、その時、同じ恐怖に身をかき抱いた。
 魔物に守られ、魔物に指示を出し、魔物とともにいる女が、人間であるはずがないと……。
 首を絞められ、殺されかけた男がよろよろと立ち上がる。
「だから言ったんだ」
 彼の目には、狂気が色濃く浮かんでいた。
「この女は魔女なんだ」
 朝日が高くなる。昼が訪れる。
 彼女の味方となりうるものを、全て拒絶する強い光が、もうすぐ降り注ぐ。
 リサは、小さく言った。
「おまえはお逃げ。そしてアルカードに……」
 魔物は一声ないて、闇の中に溶け込もうとした。だが片足を影の中におとしただけで、急に動きを止める。
 全てが遅かった。
 魔物であったものは、急激に薄れ、飛散した。土くれとなったその残骸から、美しい短剣が顔を覗かせている。
「闇は滅しました」
 戸口に棒立ちしたままの神父の肩を、軽く叩いた者がいた。魔物に殺されかけた男でも、遠巻きに見ていた村人の一人でもない。
 若い男は首に十字架をつるし、神父と同じ服を身にまとっていた。片手に持った聖水を満たした器には、床に転がったままの短剣と同じものが数本、浸してある。
「この女は、一応裁判にかけねばなりません」
 若い神父は、ようやく表情を戻り出した村人たちへこう告げた。
「我々は神の名のもとに、この女を裁く義務がある。悪しき魂には、その罪に見合った罰を与えねばなりません」
 白昼夢よりもなお恐ろしい現実を、たった今味わった村人たちは、その朗々たる声を神の声と重ねて聞いた。
 リサの住まう小さな家を囲む人の輪が、ごくゆっくりと小さくなっていく。
 リサは目を伏せた。
 もう、何を言っても、誰の耳にも、言葉が届くことはないだろう。
 それでもリサは、逃げることも泣くこともしなかった。
「あなたの好きなように裁きなさい。人々だけではなく、主が全てを見届けてくださるでしょう」
 彼女は取り押さえられた。
 教会の離れにある使われていない倉庫を牢屋に見立て、彼女は投獄された。
 聖堂では、彼女抜きの裁判が行われている。集まった人々は、若い神父の威厳に満ちた口調と自信に溢れた眼差しに、安堵の息を漏らし称賛の声をおくった。
 若い神父は彼らを見回し、満足そうに頷く。

 彼は、隣村に新しく赴任してきたばかりだった。おかしな病が流行り始めてから暫くして、この村のある男から、不可思議な女の話を聞いた。
 彼の話によれば、女の作った薬草を飲み、妻が亡くなったという。
 女の煎じる薬草は昔、多くの人々を救ったらしいが、ここ二十年ばかり彼女は村から姿を消していた。ところが話の女が久しぶりに村に現れた。以前と同じ家に住み、そこで薬草を作り始めた頃、流行病は猛威を奮い始めたのだという。
「魔女だ」
 男は同じ言葉を繰り返すばかりだったが、若い神父は興味をひかれた。
 明け方近くに、彼は男に誘われこの村を訪れた。男の話の大半が誇張と空想の産物だとはいえ、問題の女を一度見ておいても損はないだろう。
 あくまでも興味本位な、ただの見物のはずだったのだ。
(だが、まさか、本物の魔女だとは……)
 その瞬間、若い神父は恐ろしくなった。
 魔女を滅するには準備が必要なのだと男を言いくるめてから、若い神父は頃合いを見計らって逃げるつもりでいた。

 しかし、この村の神父に見つかり、そうもいかなくなった。魔女との話し合いの間、『もしも』に備えて小屋の外で待機せねばならなくなったのだ。
 若い神父はがくがくと震えていた。持っているのは、聖水に浸した小さな短剣だけである。それだけでは、あまりに心もとなく、彼の恐怖は少しずつ肥大していった。
 そして突然魔物が現れたその刹那に、神父の細い神経はたこ糸のように切れてしまったのだった。
 見えない力につき動かされたかのように、無我夢中で短剣を掴む。めくら滅法に投げたそれは、しかし信じられないことに魔物を打ち滅ぼした。
(聖水に浸していただけだというのに……)
 奮えていたはずの若い神父は、一気に自信を取り戻した。
 何も恐れるものはない。
 自分は、神に選ばれた者なのだ。

 裁判は数時間で終わり、満場一致でリサの有罪が決定した。
「今、病に苦しむ者も、これで救われるでしょう」
 若い神父の声には微塵の揺らぎもなく、ただ絶対的な響きがあるだけであった。
 聖堂が村人の拍手と歓声に揺れている。
 リサの処刑は一時間後に決定した。魔女は即刻火炙りにすべしと、多くの者がその意見に賛同したからだった。

 ちょうどその頃、リサが監禁されている古びた倉庫に、重い足取りで向かう人の影があった。
 この村の神父である。
 初老の神父の顔には強い疲労と、やるせない怒りがじんわりと滲んでいた。
 二十年ほど前、リサの作った薬が彼の母を救った。長い間病に患い、死の床に伏していた老いた母は、薬を飲んだ翌日から嘘のように快方へ向かった。
 縫い物が出来るほどにまで回復した母は、つい先月天寿をまっとうしたばかりだ。その死に顔の安らかさは生涯忘れることが出来ないだろう。そして二十年ほど前の、リサの優しい笑顔も……。
「お母さまの生命力のおかげです。生きようとする力があれば、薬だってより効きますわ」
 妻を亡くしたあの男……ダルキスの気持ちは分からなくもない。だが彼はほかの者がリサの薬を薦めたのにもかかわらず、そんな薬など使わずとも大丈夫だと言い張り、結局妻がほとんど死にそうになってから、やっと泣きついたのだ。
 神父は、魔女騒ぎも彼の一人芝居だろうと高をくくっていた。しかし神父の立場上、万が一ということは考えておかねばならない。
 『もしも』何かあった時に、彼は人々を守る義務があったからだ。
「なぜ……リサを……」
 神父のしわがれた頬が、憤りのために朱に染まる。うす気味の悪い魔物の姿が目に焼き付いて離れない。
 きっとあのような悍ましい化け物がリサに化け、我らを欺き楽しんでいたのだ。
 神父は十字架を握り締めたまま、倉庫の扉を開いた。優しく美しいリサの姿のまま火炙りになるのは、こちらも心穏やかではいられない。

「化け物め、リサの姿をしていても、もう騙されぬ。さっさと正体を現すがいい」
 リサは倉庫の真ん中に跪いていた。あかり取りの小さな窓から、日が差し込んでいる。

 光はリサを包むようにして床まで届き、彼女のうす茶の髪は、フレスコ画の天使たちよりもなお美しく金色に輝いていた。
 昼の光はあまりに強く、眩しく、彼女の髪に光の輪すら描き出している。

 神父は、絵のような光景の前にして何も言えなくなった。さきほど怒りのままに怒鳴ったことすら、遠い過去の出来事のように錯覚してしまいそうだ。
 リサは振り返り、神父を静かに見上げた。昔と同じ慈愛に満ちた美しい顔は、まるで聖母のようだった。
 神父は膝が震えた。
 教会では彼女の火炙りが決定し、その準備のために村人たちが奔走し始めているころだ。
 膝の震えがますます大きくなる。
 自分たちは取り返しのつかない過ちを犯そうとしている。
 神父は扉を開け放したまま、きびすを返した。何もかもが間違いだったのだ。
 たった今、それが分かった。

「何としてでも、やめさせねば」
 神父はもつれる足を無理やり走らせ、憎悪と歓喜にわく人々を吐き出している、教会の入り口へと向かった。

 リサは木で作られた十字の上に、磔にされていた。足元には枯れ草や小枝が、うずたかく積まれている。
 間違いを正し、リサを救おうとしたこの村の神父は、離れの倉庫に『投獄』されていた。
 あの若い神父がたった一言『彼は、魔女に惑わされた裏切り者である』と言っただけで、村人は何十年もこの村の教会を守って来た神父を平気で罪人扱いした。
 既に異常な空気がその場に満ちていた。
 人々は魔女に罵声を浴びせ、憎悪と憤怒と歓喜を隠そうともしない。

 リサの目が初めて涙を生んだ。
 運命を変えることなど出来はしない。
 伯爵と恋に落ちたことで少しだけ、今日という日の訪れが遅れてしまった分、幸せな日々を過ごすことが出来たのだ。
 それで十分だった。十分だと思いたかった。

 人々の輪の中から若い神父が重々しい足取りで現れた。手に持った十字架をことさら高く掲げてみせる。
「神の名のもとに、魔女は死に、病魔は村から去るだろう」
 無情な声を合図に、村の男たちが次々に火をつけていく。その時、一人の女が突然大声で泣きだした。
「あんたたちは人殺しだ。あたしの子はあの人のおかげで助かったのに……。神父さままで倉庫に押し込むなんて、あたしは……あたしは、恐ろしくてたまらない……」
 語尾はむせび泣く声に紛れて消えた。
 村人の一部が大きくざわめく。女の叫びが、人々の心に巣くった狂気を激しくゆらしたのだ。

 若い神父から自信と尊大さが消え、代わりに焦りと苛立ちが生まれた。
「惑わされるな!……魔女を放っておけば災厄に見舞われるのだぞ」
 災厄という言葉に、再び村人たちは揺り動かされた。
 既に炎が高くなっている。もしも無実の女を……と考えるよりは魔女を焼き殺すのだと自らに言い聞かせた方がいい。
 狂気に身を委ねた方が楽なことを、その方が何の良心の呵責もなく後の日々を過ごせることを、彼らは心の奥底で知っていたのかもしれない。

 立ちのぼる煙に紛れて、一つの小さな黒い影が空へと舞い上がる。
 再び狂気に汚染された人々も、最初から汚染されていた神父も、その影に気づくことは決してなかった。


第 8 章

「まさか、そんな……」
 アルカードが村へ入った時、広場は女たちのすすり泣く声に満ちていた。
 中央に見えるのは、真っ黒に焼け焦げた十字に組まれた木と、あとは炭と燃えかすの山ばかりだ。
 アルカードは強く唇をかんだ。
 念のために使い魔の蝙蝠を三匹ほど母につけてはいたのだが、最後の一匹が知らせに来たとき、彼はまだ森の中だった。
 昼の日差しは、彼の肌を容赦なく焼き、魔力も強靭な脚力さえも奪ってゆく。

 人の血が混じっているとはいえ、人間のように日光の下を自由に闊歩するには苦痛が伴うのだ。
 アルカードは泣き止まぬ女たちの内の一人に問いただした。
「……リサという名の女性はどうなったのだ」
 女は雷にでも打たれたように、びくりと震えた。
「あの方の知り合いの人ですか?」
 女は明らかに脅えていた。
「……彼女はわたしの母だ」
 アルカードが告げると、女は泣き伏した。額が土で汚れるのもかまわずに、ひたすらに許しを請う。
「どうかお許しください。わたしたちはとんでもない間違いをしちまったのです。だのにあの方は許してくださって……」
 女は激しく泣きだし、話は要領を得ない。だが、アルカードは密かに望みを抱いた。

 火炙りが行われたであろう広場の中央には、死体はもちろん骨のかけらすら無かった。そして今、女はリサから許しを得たと言う。
(間に合ったのかもしれない)
 アルカードの胸に若干の希望が浮かぶ。
 だがその反面、女たちが一様にすすり泣き、何人もの男が消えてしまった松明を持ったまま棒立ちしている光景は、異様だとしかいいようがない。

「あなたさまは、リサさまの息子さまですか?」
 おずおずと一人の女が声をかけてきた。煤で汚れたエプロンと乱れた髪が、女を十は老けさせて見せる。黒いフードとマントで身を包んでいるとはいえ、アルカードの身なりは平民のものではない。そのため、女はしきりに彼の顔色を伺い、努めて丁寧な言葉遣いをしようとした。
「ど……どうかお怒りにならずに聞いてください。あの方は、リサさまは、天へお帰りになっちまったんです」

 アルカードは眉をひそめた。女の眼差しも口調も真剣で、とても冗談を言っているようには思えない。
 女は彼の前でひざをつき、両手を組んだ。そして、まるで懴悔でもするかのように『その時』のことを語り始める。
 リサは火炙りの刑に処せられた。炎は高々と燃え上がり、あっという間に全てを包み込んだ。誰もが魔女は焼け死んだと思った。だが、炎の中に誰の姿も見えないことに、若い神父が気づいた。
 彼女を磔にした木の十字架は炎の中で黒い影をゆらしている。しかし、そのどこにも人の姿がないのだ。
 神父は恐慌状態に陥った。
「本物の魔女がただで殺されるはずがない。俺たちは報復されるんだ。魔女の呪いを受けるんだ」
 子供のように泣きわめき、神父は燃え盛る炎を背にして、逃げ出した。彼の醜態が村人たちに混乱をもたらし、失われていた理性を呼び戻させる。
 とにかく火を消さねばならない。
 正気に返った村人の幾人かが、井戸へ走りかけたその時だった。
 彼らは奇跡を目の当たりにした。
 一瞬、空の全てを闇が覆いつくし、直後に光が渦巻き、空を白一色に染めあげた。大きな白い手がその空から滲み出し、いまだ燃え盛る炎へと伸びてゆく。
 手は何かを掴み上げた。
 長い髪が、光の中で金色に輝いている。
 村人たちは凍りついたように動けなかった。彼女が誰なのか、即座に分かったからだ。

 恐れおののく村人たち全てに、その時、声が届いた。耳にではなく、心の内にその声は響きわたる。
 言葉はない。だが、その声の持つ意味は理解できた。
 他者を許し、他者を思い、他者を愛すこと。
 ただそこにあるのは、労りと優しさだけだった。
 奇跡はあっという間に消失した。村人たちが我に返ったときには、炎は消え去り、かわりに美しい姿のままのリサが横たわっていた。
 黙って聞いていたアルカードは、耐え切れず女の肩をゆさぶった。
「母はどこだ!」
 女は両手で顔を覆い、それから教会を指さした。
「亡きがらはあそこに安置してあります」

 腕に抱いた母の屍を、アルカードはゆっくりと長椅子の上に降ろした。闇の城に持ち帰ってもなお、母の白い顔は美しくその肌はやわらかだった。
 図書館の主はその老いた顔に静かな怒りを浮かべ、赤い髪の淫魔は唇を歪めた。
「ばかな子。あれほど人間に肩入れするなと言ったのに」

 アルカードは女の乱暴な口調にも、もう言い返す気力がなかった。
 教会では、村の神父がひとり母の死体に祈りを捧げていた。母を父のもとへ連れ帰りたいと申し出たときの彼の顔が忘れられない。
 一瞬の戸惑いと、不審。そして数秒後の涙。
 初老の神父は彼に十字架をわたし、祈りの言葉の後に深く一礼した。
「あの方は、さきほどもう一度声をくだされました。『全ては定められたことなのだから、誰も恨むことのないように』と」
 神父の作り話などではなく、それは紛れもない真実だろう。
 鮮やかな記憶を辿りながら、アルカードは長椅子に横たわる母の首に十字架をかけた。
 女は顔をしかめてその場から離れ、図書館の主は、アルカードを小さく諌める。
「伯爵さまがもうすぐ参られます」

 言外に聖なる物は外せと言っているのだろうが、アルカードは無視した。彼にとって十字架は恐れるものでも、忌まわしきものでもない。
 図書館の主は息をはいた。
(人間の血が混じっているせいかもしれないが、恐らくそれだけではないだろう)
 リサの血をひいているからだ。

 老人にはそう思えてならなかった。目の前にある死体ですら生きているようにしか見えない。
 間違いなく、彼女は神の恩寵を受けていたのだ。そして使命を果たし、迎えが来た。
 だが恐らく伯爵は怒り狂うだろう。
 図書館の主と同じようにアルカードもそう考えていた。何としてでも怒りを圧えなければ、母が許した人々は無残にも皆殺しにされるだろう。
「伯爵さまがいらっしゃったわよ」
 女が青ざめた顔を扉の陰から覗かせた。常に高慢で尊大な態度の淫魔が、まるで別人のようだ。
 伯爵は音もなく現れた。空気がびりびりと震え、あふれ出す魔力の渦が、アルカードや老人にまで吐き気を催させる。 暗くにごった伯爵の目は、ただ一点しかとらえていなかった。
 横たわる妻の亡きがらへ歩み寄り、何度か名前を呼ぶ。もちろん答える声などない。
 突如、身の毛もよだつような咆哮が上がった。伯爵は腕に妻を抱いたまま、激情を、憎悪を、怒りを露にして吠えた。
 リサの首にかけられた十字架が砕け散る。

 城全体が大きく揺れる。
「父上!」
 アルカードの叫びは轟音にかき消された。城の揺れは激しくなり、空気が変わってゆく。
 もしその場に行き会わせた人があったならば、尋常ではないその光景を前に足が動かなくなったことだろう。
 傾きかけた日は、空の青の中で煌々と輝いていたはずだった。それが急に弱まり、うっすらと霞がかかり、周囲がどんよりと暗くなる。深い森は靄に覆われ、その靄が黒く巨大な城を生み出すのに、たいした時間はかからなかった。 
 伯爵はめくらましの術を施すことを止めたのだ。誰の目にも明らかな城の出現は、そのまま伯爵の怒りを表していた。
「父上、ハンターに門を開くおつもりですか!」

 平穏な日々のために、余計な争いを避けるために、この城はずっと人間の目にふれずにきた。しかしこれでは、魔に属するものを専門に狩るハンターたちを、手招いているようなものだ。
 伯爵は哄笑した。鋭い犬歯が覗き、目が赤光を放つ。
「人間どもめ、来るなら来るがいい。必ずその喉元をかっ捌いてやろう」
 伯爵の笑い声だけが、こだまし続けた。

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