小説月下の夜想曲
† 終章 †

終  章

   1 アルカード

 四百年が過ぎた。
 アルカードは城のあった方角に背を向ける。もうそこには何も存在しない。城も魔のものたちも、皆、闇に帰っていった。彼一人を残して……。
 この四百年の間に、彼は二度父親を倒した。一度は宿敵であるはずの吸血鬼ハンターとともに、二度目はつい今し方、使い魔のほかは誰の力も借りず、たった一人で……。
 父は強大であった。しかし、これまでがそうであったように、父はあっけなく倒れた。
 まるで死に急ぐかのように……。
 復活しては百年眠り、眠りから冷めれば城を出現させ、ハンターを招き彼らによって滅ぼされ、そしてまた復活する。
 アルカードは父と一対一で対峙した時、初めて父の心に僅かだが触れたような気がした。人間への激しい憎悪と怒りの炎は、四百年が過ぎてもいまだ褪せることなく、伯爵の中で燃え盛っていたのだ。
「よもや、人間どもがおまえの母にしたことを、忘れたわけではあるまいな」
 人間になぜ肩入れするのかと、父はアルカードを責めた。
 伯爵の中では、たとえ何百年たとうとも、妻と生きた時間のことはつい昨日のことのように感じられるのだろう。
 恐らく母の亡きがらは今もなお、その美しさを損なうことなく、あの失われた城のどこかに安置してあったに違いない。
 伯爵は不死の王だ。それゆえに儚く消えた妻の命を、なぜ引き止めることができなかったのか、なぜ彼女を眷属に引き入れることをためらったのか、自責の念に苛まれたのだろう。
「父上……」
 アルカードは我知らず呟いた。
 彼も伯爵も、四百年過ぎた今も、母が死んだ時の姿のままでいる。伯爵など若い姿などいくらでも取れるだろうに、壮年の姿を変えもしない。
 父は殺してくれる相手を待っているのだ。何度も蘇っては滅ぼすものを待っている。
 母を殺した村人たちに報復せず、城を出現させるに止まった伯爵の真意を、アルカードは僅かだが分かった気がした。
 彼は空を仰いだ。厚い雲の間から、いく筋かの光が地上にさしている。人の血が半分交じっているとはいえ、彼は闇の中で生きる者だ。昼の世界で人と共に生きることは無理だろう。
 必ず伯爵は復活する。そして城は再び訪問者を迎え入れるはずだ。
 そのときまで、彼は人目につかずひっそりと眠ることを心に決めた。
 呪われた血にまかせて、誰かを手にかけることのないように……。

   2 マリア

 マリアは走っていた。一度は義兄とともに帰るつもりでいた。しかし、あの恐ろしき城で出会った、冷たさの中に悲しみを湛えた青年の姿が忘れられなかった。
 あの悪魔の城は、義兄の一族の仇敵の住処だという。消息を絶った義兄の行方を探し、一人あの城に入った時、彼と出会った。

 見たところは自分とそう年の変わらない若者だが、身に纏う雰囲気が人とは明らかに異なっている。だからマリアにはすぐに分かった。
 この美しい若者は人ではないと。
 繊細な容姿に似合わず腕もたち、その飛翔力も圧倒的な力も、軽く人間を凌駕している。さらに、負った傷の異常なまでの治りの早さ、人知を越えた魔法の力は、彼が魔に属するものだと容易に想像がつく。
 だのに、その魂は邪悪ではないのだ。
 正気を失い、この城の主に祭り上げられていたマリアの義兄は、彼の力により呪縛から解き放たれた。

 義兄は吸血鬼ハンターだ。そして彼は、アルカードは、この邪悪な城の城主の息子だという。
「あんな顔して、意外とお人よしだなんてね」
 凍るような鋭い視線の持ち主だった。
 冷たく見えるような態度と口調だった。
 しかし、彼女の義兄が自らの仇敵であるのにもかかわらず助け、実の父親に刃を向けた。

 マリアの頬を雨粒が打つ。彼方で雷鳴が轟いている。
 吸血鬼は流れ水を嫌うという。古来からの言い伝えだが、あながち嘘でもないだろう。
「どこかに雨宿り出来そうな場所はないかしら」
 森に入り暫く探しまわると、視界のすみに朽ち果てた教会をとらえた。彼は水を嫌っても、十字架を嫌うことはない。
 マリアはそこへ向かい、そっと呼びかけた。

「アルカード、いるの?」
 答えはない。雨脚が強くなり、マリアは聖堂内へ入った。空を黒い雲が覆っている。
「本格的に降りそうね」
 風も出て来た。マリアは軽く身震いして、ぐっしょり濡れた髪を布で拭く。
 崩れ残っている聖堂の隅に向かった時、影が動いた。
「こんな所で何をしている」
 気配が全くないために、マリアは度肝を抜かれた。プラチナブロンドの長い髪が、暗がりの中でも鮮やかに目に映る。
 アルカードが壁を背に、床に座り込んでいた。

 髪から水滴が落ちている。案の定、雨に降られ、ここに雨宿りに来たのだろう。
「こんなところで何をしてるって、あなたを追いかけて来たに決まってるでしょう」

 マリアは憤慨してみせた。そのままつかつかと歩み寄り、布を渡して彼の隣にどっかりと腰をおろす。
「髪くらい拭いておいた方がいいわよ。風邪をひくわ」
 そう言ってから赤面する。彼は人間ではなく、不死の王の息子である。病とは無縁だろう。
 アルカードは何も言わなかった。渡された布で軽く髪を拭く。マリアは横目でその様子をちらちら見やったが、彼の顔色の悪さに内心かなり驚いていた。
 元々死人のような顔色であったが、今は憔悴の色が濃く、まるで精緻な彫刻のように青白い。
「ねえ、ちょっと、大丈夫なの?」
「……無駄話をしに来たのなら、さっさと義兄の元へ帰ったほうがいい」
 アルカードは目を伏せていた。額や頬に張り付いた髪が、なおも小さな滴を生んでいる。
 マリアは思わず彼の顔へ手を伸ばした。が、彼女の手首を、冷たく大きな手がとらえる。
「わたしはここの地下で眠りにつく。おまえは義兄の元へ帰れ」
 冷たい手は鋭い爪を宿していた。彼の厚手の手袋は剣とともに床に転がしてある。伏せられていたはずの瞼は開き、深紅の瞳がマリアの姿を映していた。
「アルカード……あなた……」
 マリアの表情には驚きと理解が浮かんでいたが、アルカードは手を放し、視線を逸らした。
「……早くここから立ち去った方が、おまえ自身のためにもいいだろう」
 マリアは彼の言葉を無視した。抱えた膝の上に顎を乗せ、一人ごとのように語り出す。
「わたしの村にはね、古い言い伝えがあるの」
 大降りだった雨は、土砂降りになっていた。向こうの景色が霞んで見える。
「昔、村に聖女さまが来たの。聖女さまは薬を作って沢山の人の病気を治してくださったわ。でも、悪魔に魂を売った流れ者のニセ神父が村人を惑わしたの。あの女は魔女だって言って」
 アルカードの眉が僅かに上がった。
「村人たちは神父に言われるままに聖女さまを火炙りにしてしまったの。でもそこで奇跡が起きたの。聖女さまはお怒りにならず、村に泉と言葉を残して天に帰られたのですって」
「泉……」
「ええ。聖女さまを火炙りにしてしまったその場所から、泉が沸き出して、その水を飲んだ村人たちの病は、立ち所に消えてしまったの。村人たちは近隣の村にその泉の水を持って行き、流行病は魔女のせいだと無実の罪で火炙りになりかけた女性たちを、何人も救ったのですって。……今はもう、その泉も涸れてしまったけれどね」
 マリアはアルカードの肩にそっともたれた。
「聖女さまはとてもお優しい方で、人も動物もそして闇に住まう者にまで、同じ労りと愛を注いだそうよ」
 アルカードの唇から、荒い息がもれる。眉間に深い皺がより、己の中の野獣を隠すようにきつく瞼が閉じられている。
 マリアは彼の手をとり、自分の頬へ押し当てさせた。頬に触れる手は僅かに濡れ、氷のように冷たい。
 彼は死闘を終えたばかりだ。体力も魔力もかなり消耗したはずだ。その上に、『昼』の時間に雨に打たれたのだ。
 これ以上ない苦痛と飢えが彼を苛んでいるのは明らかだった。 
「あなた、そんな状態で本気で眠るつもりでいるの? 絶対に無理だわ」
 マリアは頬に触れる手を、両手で包み込んだ。
「せめて、気持ちを落ち着けてからにしてちょうだい」
 今までは闇の城にいた。あの場所で眠るのならば、彼も余計な消耗をせずにすむ。むしろ魔力を含んだその空気が、彼の疲労も苦痛も和らげていたはずだ。そして徘徊する魔物の血が、彼の喉の渇きをいくらかでも満たしていたことだろう。
 だが、その城は闇へと帰り、次はいつ現れるのか分からない。

「このままでは事情を知らない人を襲うことになるわよ」
 アルカードはマリアを見つめた。恐らく、それは誰より彼自身が分かっていることなのだろう。深紅の瞳には凶暴な光はまるで無く、ただ深い哀しみと激しい痛みがあった。
 だからマリアは安心した。
「わたしなら平気よ」
 アルカードの濡れた赤い唇から、もう一度荒い息がもれた。水を吸ったマントが、彼の動きに合わせて重い衣ずれの音を引き起こす。彼女の頬にあった青い手は丸みをおびた肩を抱き、そのまま引き寄せた。抱きすくめられても、マリアには恐怖よりも安堵の気持ちの方がずっと強かった。
 彼に必要とされ、信頼されている……確証はなくともそう感じることが出来た。
 刃物のような冷たさを持った細い指が、彼女の襟もとを広げる。湿った外気に、露になった喉がさらされる。

 間近にある彼の顔は驚くほど綺麗であったが、形のよい半開きの唇から覗くぞっとするほど長く鋭い犬歯が、彼の乾きの深さを物語っているように思えた。
 アルカードは身をかがめ、マリアの首筋に顔を埋めた。唇はもとより、喉を撫で上げた吐息までが、冷やりとしている。
「他の誰かだったら嫌だったわ……。でもあなたならかまわない」

 マリアは力を抜き、彼に身をあずけた。
「あなただから、かまわないの」

 かつてアルカードの母が言った言葉と、同じ言葉が自然とマリアの口からこぼれでた。勿論、マリアは彼の両親の経緯など知りはしない。
 ただ、今の自分の気持ちを言葉にしたら、そうなっただけなのだ。
 マリアは喉に甘い痛みを感じながら、彼とともに昼の世界で過ごすことを願った。外ならぬ彼自身が、きっとそう望んでいるのだと思えてならなかったからだ。
 土砂降りだった雨も、いつの間にか小雨へと変わっている。変化はどんなものにも訪れるのだ。

 もしかしたら分かり合える日が来るかもしれない。その兆しになり得ることを、マリアは願ってやまなかった。

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