翌日、娘は日が落ちてすぐ城に向かった。気になることがあったからだ。
が、城門までなかなかたどり着けず、やっと着いてみれば門は固く閉ざされている。娘は伯爵の名を呼んだが、返事もない。
(気にしてるのかしら)
娘の表情が曇る。
どうしようかと、うろうろしている矢先に、声がかかった。
「無駄よ。伯爵様はおまえに会いたくはないのですって」
あの赤い髪の女だった。袖のない肩のあらわになったドレスを身にまとい、前に会った時よりもさらに妖艶だった。そしてそのドレスは背中も大きく開いている。
そこから生えているのは一対の蝙蝠の羽……。
娘はそれを見て顔色を変えた。女に駆け寄り開口一番、
「悪いけどその翼で、私を抱えてこの塀を飛び越えてくれないかしら」
女は絶句した。真摯な眼差しで見つめている娘は、とても冗談を言っているようにも、虚勢を張っているようにも見えない。
あくまでも真面目に、女に頼んでいるようだった。
「……出来ないことはないけれど、どうしてわたしが、おまえのためにそこまでしなくてはならないの」
女は努めて冷ややかな口調を試みたが、娘はどうやら後半部分は全く聞いていなかったらしい。
「まあ、出来るのね。ありがとう」
勝手に礼を言って、女の首筋に腕をまわす。
「さあ、わたしの方はいつでもいいわよ」 女は唖然とした。娘は女がいつでも飛べるようにと、既に体勢を整えているつもりらしい。
「おまえは……」
女は何か言わなければと口を開きはしたが、結局次の言葉が見つからなかった。 投げやりな気持ちで娘を抱き抱える。闇の眷属である女にとって、娘の重さなど微々たるものだ。羽ばたきも軽やかに、城壁を飛び越えると、娘は手を叩いて喜んだ。
「素晴らしいわ。空を飛ぶってとても気持ちのいいことなのね」
相変わらずの無邪気な様子に、女は罵倒する気力を失った。
「勝手に伯爵さまを探すがいいわ。どうせおまえには見つけられないだろうけど」
女はそれだけ言った。
娘はただ笑うだけで、女の冷ややかな物言いにも気にする風はなく、女に丁寧に礼を述べた後、通用口を通って城の奥へと消えていった。ほんの少しだけ小走りに、先を急ぐように……。
「本当に馬鹿な娘……」
中庭に立ち尽くしたまま、淫魔である女は、娘が消えた小さな扉を見つめていた。城に入ってすぐ、娘は図書館の主に出会った。どうやら、彼のほうで娘を待ち構えていたらしい。
「伯爵さまはあなたにお会いしたくはないそうです」
「ええ」
「わしは、あなたを伯爵さまのいらっしゃるお部屋の近くまでは案内出来ますが、それ以上のことは出来ませぬ。それでもよろしいか」
遠回しに何があってもしらないぞと言っているのだが、娘には全くおびえた様子が無かった。老人を見上げ、お願いしますと頭を下げる。
「わたしは、あの方に会わなければならない気がするんです」
老人はもう何も言わなかった。黙りこくったまま城内を案内する。時折異様な姿をした化け物たちが娘に近づいたりもしたが、その都度老人が追い払った。
(全くわたしの知らない所ばかりだわ)
娘がいつも彼と会い、話をしながら歩く城内は、美しく明るく異様なものたちの影すら無かった。ところが、老人と二人で歩くこの廊下は闇夜に沈み、彼の持つ手燭の明かりだけが頼りである。その上、美しさのかけらもなく、時折、明かりの中に浮かび上がるのは、埃にまみれた絨毯や、ぼろぼろに崩れたカーテンばかりで、壁には絵画の一つもない。
カビ臭く湿った空気は、どんよりと重く、まるで地下室を歩いているかのようだった。
暫く歩いた後、老人は娘に手燭を渡した。
「ここから先は、あなた一人で行って頂きたい」
老人の指し示す扉の奥には、地下へと続く階段が大きな口を開けて待っていた。飲み込まれそうなほど暗い穴は威圧的で、先が見えない分、余計に恐怖を煽る。
並の人間よりはずっと頑丈な心臓の持ち主である娘ですら、握った手にじっとりと汗を感じた。
「分かりました。行って参ります」
娘は真っすぐ足を踏み出した。決して振り返ることなく、冷たい石の階段を降りて行く。
吐息が白くなる。娘は肩にかけたショールの下で身を震わせた。歩けば歩くだけ、降りれば降りるだけ、空気は冷たく淀んでゆく。
目眩のするような長い階段を降りた先には、真の闇が広がっていた。明かりで照らすと、整然と並んだ石の柩が見え、どこかの寺院の墓所のようにも見える。ただ柩を飾る意匠はどれもまがまがしく、神の御元に眠るといった清澄さはどこにもない。
娘は冷気の源を探るように、柩の間を通り先へと進んだ。奥の方から刺すようなゆるい風が吹いてくる。
冷やりとしたその風に逆らうように歩み続けた後、娘はようやくたどり着いた。 そこは、誰かの玄室のようだった。扉は無く、深紅の絨毯が入り口から奥へと真っすぐ伸びている。その先は一段か二段高くなっているようだったが、入り口からでは到底はっきりとは見てとれない。 娘は迷わずその段差を目指した。近づくにつれ、明かりの中にぼんやりと全景が浮かび上がってくる。
赤い絨毯の上にさらに赤い布が幾重にも重ねられ、その上には大きくどっしりとした石の柩が置かれている。蓋は無く、内部はその淀んだ空気に直に触れていた。 娘は息を呑んだ。
あまりにおぞましく、また、まがまがしいその場所に、死に装束には全く見えない豪奢な衣服を身につけた人が、仰向けに横たわっているのだ。
「伯爵さま……」
横たわる人物の長い銀髪は、肩から胸へ渦を巻くように流れ、手燭の弱い光の中でも美しくきらめいていた。
血色の唇も、男性にしては長い伏せた睫も、秀でた額にかかる髪の一本まで、その刃のような端正さは昨日と何ら変わるところはない。しかしながら、死人が入るべき場所に横たわっているのを目の当たりにして、精神の頑強さを誇る娘でも流石に心をかき乱された。
(まさか自害なされたのでは……)
よくよく考えれば、自害する吸血鬼など聞いたこともないのだが、娘はかなり動転していた。駆け寄り、膝を付き、覗き込む。
その刹那、冷たい手が彼女の頬を包み込んだ。
「とうとうここまで来てしまったのだな……」
伯爵の琥珀色の瞳は、抑揚の無い口調とは裏腹に、強い感情の色を湛えている。娘はその吸い込まれそうなほど尋常でない金の輝きに、真っ向から対峙した。
「わたしは心配になったのです。あなたがわたしに負い目を感じてるのではないかって……だからあなたに会いに来たのに……」
娘は少しばかり眉を寄せた。
「棺桶に入って寝ているのですもの。自害されたのかと思ってしまったわ」
唇をとがらし、頬を紅潮させた娘を目にして、伯爵の口元に自然と微笑が浮かんだ。ゆっくりと身を起こし、乱れた銀の髪に、自らの細い指をからめて通す。
「‥…わたしはいつもここで眠る。ここが一番落ち着くのだよ」
娘は石の柩の冷やりとした感触と、柩の底に敷かれた深紅の布の下に、深く敷き詰められた土の感触を確かめ、小首を傾げた。
「わたしには、そんなに心地よい場所には思えないわ」
娘の正直な意見に、伯爵の気持ちはほぐれた。暫しの間、すべてを忘れて彼女と談笑する。まるで昨日の出来事など夢であったかのように……。
だが、それも長くは続かなかった。伯爵は、彼女が首まわりを隠すように、しっかりとショールを羽織っていることに気づいてしまったのだ。
「ここは、冷えるか」
「ええ」
娘は即答した。事実娘の息は白く、細い体は闇の中で、あまりにはかなげに見える。
伯爵は娘のショールに手を伸ばした。 彼の手が触れる寸前、娘は反射的にショールを手で抑えたが、思い直した。隠し立てする方が却って伯爵を傷つけることになるだろう。
伯爵は娘の態度に一瞬躊躇したが、そのまま手を伸ばし彼女のくすんだ茶色のショールを軽く引いた。それだけで娘の白い喉が露になる。
伯爵は娘からゆっくりと身を離した。 彼女の喉には昨夜の傷痕が、赤い二つの点となってはっきり残っていた。それはあたかも伯爵に断罪を求めるように、生々しく、そして痛々しかった。
「痛みは……」
伯爵は彼女から視線を逸らしながら、重い口調で尋ねた。娘は首を振る。
「痛みはもうないわ。昨夜あなたが噛んだ時にわずかに感じただけ」
伯爵は目を伏せた。彼女の血の味を思い出し、それを美味だと感じた己が呪わしかった。
「もう傷痕を消してしまった方が良かろう。村人に見つかれば大変なことになる」
伯爵は長い沈黙の後で、ようやくそれだけ口にした。閉鎖的な村社会では、神の教えを尋常ではない方向に持って行きがちだ。多くの村々で、病が流行ったり農作物が不作であったりする度に、魔女狩りと称して、罪の無い女を火炙りにしている。
人間のすることである。これまでの伯爵ならば、別段どうとも思わなかっただろうが、娘が係わってくるとなると話は別だ。
以前娘自身が見せたあの神秘的な力を用いて、早々にこの傷痕を消してしまった方が、村人に余計な詮索をされずに済むはずである。
だが、娘はただ曖昧なほほ笑みを浮かべただけだった。
「自分自身にはあの力は使えないの。前世の業が余程深かったのね」
「前世……?」
「輪廻転生……生物は生まれては死に、また同じ魂を抱えて新たに生まれては死んで行く。永遠にそれが続いて行くということなの。前世とは、今の私が生まれ変わる以前の私の生涯のことよ。遠い東の地では一般的に知られているわ」
伯爵は娘が何を言っているのか一瞬理解に苦しんだ。教会では全くといっていいほどそんな教えなどしないし、むしろ邪教といわれても仕方のないような途方もない話である。
娘は天井を仰ぎ見た。その眼差しは、暗い地下室の壁を通り越して、遥か天の彼方に向けられているようだった。
「主の声が聞こえるわけではないわ。でも感じるの。己を顧みず他者のために尽くし他者を救うこと……それがわたしの生きる意味なの」
伯爵は何ともいえない表情で、娘の白く美しい顔を見やる。誰か別の人間と話しているように、彼には感じられたのだ。 娘は、小さく笑った。
「あなたは今、わたしのことを狂信者だと思ったでしょう」
伯爵は反論が出来なかった。娘は彼の返事を待つことなく、白く細い両手を彼の前に差し出した。手のひらは天に向けられ、何かを掬うような形である。
「見ていて」
娘は静かに目を閉じ、小さく祈りの言葉を発した。その直後、伯爵は目を見張った。彼女の両手から清らかな水が湧きだし、溢れて流れ落ちてゆく。
それは信じられない光景だった。常に尋常ならざる者たちとともに、夜の世界を闊歩してきた伯爵でさえ、驚愕が全身を貫いた。彼女が以前見せた白い光は、聖職者たちの多くが纏っている、白いオーラに通ずるものがあり、あれほど強い治癒能力は見たことのない彼であっても、何とか己を納得させることが出来た。
だが、こんな不可思議な力は目にしたことがない。
娘はまるで伯爵の心のうちを読んだように、言葉を続けた。
「あの女の人に使った力は、特別なの。普段は薬草を煎じたものにこの水を交ぜて、病気の人に飲ませるわ」
娘はこの奇跡の水で、村人たちの病や怪我を治してきた。煎じた薬草にわざわざ交ぜるのは、少しでも彼らの常識の範囲内で治療を行いたいからだ。
「わたしの力は、普通の人には気味の悪いものなの。だから、わたしはずっと隠してきた……。本当のことを話したのは、あなたが初めてだわ」
娘の表情が陰りを帯びる。
娘は、濡れた手をそっとスカートの裾で拭い、ぽつりぽつりと話し始めた。
彼女はある下級貴族の生まれだった。ただ娘が12の時に父が濡れ衣を着せられ、冤罪により爵位を剥奪された。
領地も失い、財も失い、それでも父と母と娘は生きることを選んだ。
なぜならば、冤罪を受けたその日に、父母は強い癒しの力を……奇跡の水を得たからである。
「少しでも多くの人を救いたかったわ。貧しくなってから、貧しい人々の痛みが分かるようになったし、小さな子供が満足に食べることすら出来ず、死んでゆくのを見るのは辛かった……」
最初は教会へ行った。だが、そこでは彼らは背信者の烙印を押された。聖職者でもないものが、ただの落ちぶれた元貴族が、奇跡を起こすなどありえないという理由からだった。
「実際に治癒の力を見せたら、彼らは焦ったの。聖職者である自分たちが、奇跡の一つも起こせないのは、彼らの沽券にかかわるし、教会の権威が揺らぐことにもなりかねないから……」
娘と彼女の両親は村を追われた。詐欺師であり、狂信者であると、教会が触れ回ったのだ。
「十四の時に両親は流行病で死んだの。治癒の力とこの水は、両親の死んだその日に、わたしに受け継がれたみたい。その日から、誰かが見守っていて、わたしに未来を指し示しているような感じがしてならないから」
娘は澄んだその目を伏せた。
「でもわたしはその日からずっと、一人ぼっちなの。誰も本当のわたしを知らないし、多分、分かってくれないと思ったから……だからずっと……」
娘の睫から透明な滴が溢れて落ちた。伯爵は彼女の肩を抱きかけ、手を止める。
「わたしが、触れても主とやらは何も言わぬのか」
娘はショールの端で濡れた頬を拭き、伯爵に笑いかけた。
「まあ、伯爵さま、言ったでしょう。わたしは主の声を直接聞いたことなどないわ。それに主はただ見守り導くだけ……誰かを愛することが罪になるなんておかしいわ」
娘はまだ潤みの残る瞳で、真っすぐ伯爵のその金の瞳を見つめた。
「わたしは、出来れば、ずっとあなたの側にいられたらいいなと思うの」
静寂が舞い降りた。
暫しの後、伯爵は彼女へと手を伸ばした。今度は少しのためらいもなく、肩を抱き娘を引き寄せ、その耳元へ唇を寄せる。
彼が低く何事か囁くと、娘の頬がばら色に染まった。娘は目を伏せ、彼に身を預ける。
伯爵は優しく彼女を抱き締め、その柔らかな唇にそっと口づけした。
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