小説月下の夜想曲
† 第6章 †

第 5 章

 翌日、娘は日が落ちてすぐ城に向かった。気になることがあったからだ。
 が、城門までなかなかたどり着けず、やっと着いてみれば門は固く閉ざされている。娘は伯爵の名を呼んだが、返事もない。
(気にしてるのかしら)
 娘の表情が曇る。
 どうしようかと、うろうろしている矢先に、声がかかった。
「無駄よ。伯爵様はおまえに会いたくはないのですって」
 あの赤い髪の女だった。袖のない肩のあらわになったドレスを身にまとい、前に会った時よりもさらに妖艶だった。そしてそのドレスは背中も大きく開いている。
 そこから生えているのは一対の蝙蝠の羽……。
 娘はそれを見て顔色を変えた。女に駆け寄り開口一番、
「悪いけどその翼で、私を抱えてこの塀を飛び越えてくれないかしら」
 女は絶句した。真摯な眼差しで見つめている娘は、とても冗談を言っているようにも、虚勢を張っているようにも見えない。
 あくまでも真面目に、女に頼んでいるようだった。
「……出来ないことはないけれど、どうしてわたしが、おまえのためにそこまでしなくてはならないの」
 女は努めて冷ややかな口調を試みたが、娘はどうやら後半部分は全く聞いていなかったらしい。
「まあ、出来るのね。ありがとう」
 勝手に礼を言って、女の首筋に腕をまわす。
「さあ、わたしの方はいつでもいいわよ」 女は唖然とした。娘は女がいつでも飛べるようにと、既に体勢を整えているつもりらしい。
「おまえは……」 
 女は何か言わなければと口を開きはしたが、結局次の言葉が見つからなかった。 投げやりな気持ちで娘を抱き抱える。闇の眷属である女にとって、娘の重さなど微々たるものだ。羽ばたきも軽やかに、城壁を飛び越えると、娘は手を叩いて喜んだ。
「素晴らしいわ。空を飛ぶってとても気持ちのいいことなのね」
 相変わらずの無邪気な様子に、女は罵倒する気力を失った。
「勝手に伯爵さまを探すがいいわ。どうせおまえには見つけられないだろうけど」
 女はそれだけ言った。

 娘はただ笑うだけで、女の冷ややかな物言いにも気にする風はなく、女に丁寧に礼を述べた後、通用口を通って城の奥へと消えていった。ほんの少しだけ小走りに、先を急ぐように……。
「本当に馬鹿な娘……」
 中庭に立ち尽くしたまま、淫魔である女は、娘が消えた小さな扉を見つめていた。城に入ってすぐ、娘は図書館の主に出会った。どうやら、彼のほうで娘を待ち構えていたらしい。
「伯爵さまはあなたにお会いしたくはないそうです」
「ええ」
「わしは、あなたを伯爵さまのいらっしゃるお部屋の近くまでは案内出来ますが、それ以上のことは出来ませぬ。それでもよろしいか」
 遠回しに何があってもしらないぞと言っているのだが、娘には全くおびえた様子が無かった。老人を見上げ、お願いしますと頭を下げる。
「わたしは、あの方に会わなければならない気がするんです」
 老人はもう何も言わなかった。黙りこくったまま城内を案内する。時折異様な姿をした化け物たちが娘に近づいたりもしたが、その都度老人が追い払った。
(全くわたしの知らない所ばかりだわ)
 娘がいつも彼と会い、話をしながら歩く城内は、美しく明るく異様なものたちの影すら無かった。ところが、老人と二人で歩くこの廊下は闇夜に沈み、彼の持つ手燭の明かりだけが頼りである。その上、美しさのかけらもなく、時折、明かりの中に浮かび上がるのは、埃にまみれた絨毯や、ぼろぼろに崩れたカーテンばかりで、壁には絵画の一つもない。

 カビ臭く湿った空気は、どんよりと重く、まるで地下室を歩いているかのようだった。
 暫く歩いた後、老人は娘に手燭を渡した。
「ここから先は、あなた一人で行って頂きたい」
 老人の指し示す扉の奥には、地下へと続く階段が大きな口を開けて待っていた。飲み込まれそうなほど暗い穴は威圧的で、先が見えない分、余計に恐怖を煽る。
 並の人間よりはずっと頑丈な心臓の持ち主である娘ですら、握った手にじっとりと汗を感じた。
「分かりました。行って参ります」
 娘は真っすぐ足を踏み出した。決して振り返ることなく、冷たい石の階段を降りて行く。
 吐息が白くなる。娘は肩にかけたショールの下で身を震わせた。歩けば歩くだけ、降りれば降りるだけ、空気は冷たく淀んでゆく。
 目眩のするような長い階段を降りた先には、真の闇が広がっていた。明かりで照らすと、整然と並んだ石の柩が見え、どこかの寺院の墓所のようにも見える。ただ柩を飾る意匠はどれもまがまがしく、神の御元に眠るといった清澄さはどこにもない。
 娘は冷気の源を探るように、柩の間を通り先へと進んだ。奥の方から刺すようなゆるい風が吹いてくる。
 冷やりとしたその風に逆らうように歩み続けた後、娘はようやくたどり着いた。 そこは、誰かの玄室のようだった。扉は無く、深紅の絨毯が入り口から奥へと真っすぐ伸びている。その先は一段か二段高くなっているようだったが、入り口からでは到底はっきりとは見てとれない。 娘は迷わずその段差を目指した。近づくにつれ、明かりの中にぼんやりと全景が浮かび上がってくる。
 赤い絨毯の上にさらに赤い布が幾重にも重ねられ、その上には大きくどっしりとした石の柩が置かれている。蓋は無く、内部はその淀んだ空気に直に触れていた。 娘は息を呑んだ。
 あまりにおぞましく、また、まがまがしいその場所に、死に装束には全く見えない豪奢な衣服を身につけた人が、仰向けに横たわっているのだ。
「伯爵さま……」
 横たわる人物の長い銀髪は、肩から胸へ渦を巻くように流れ、手燭の弱い光の中でも美しくきらめいていた。
 血色の唇も、男性にしては長い伏せた睫も、秀でた額にかかる髪の一本まで、その刃のような端正さは昨日と何ら変わるところはない。しかしながら、死人が入るべき場所に横たわっているのを目の当たりにして、精神の頑強さを誇る娘でも流石に心をかき乱された。
(まさか自害なされたのでは……)
 よくよく考えれば、自害する吸血鬼など聞いたこともないのだが、娘はかなり動転していた。駆け寄り、膝を付き、覗き込む。
 その刹那、冷たい手が彼女の頬を包み込んだ。
「とうとうここまで来てしまったのだな……」
 伯爵の琥珀色の瞳は、抑揚の無い口調とは裏腹に、強い感情の色を湛えている。娘はその吸い込まれそうなほど尋常でない金の輝きに、真っ向から対峙した。
「わたしは心配になったのです。あなたがわたしに負い目を感じてるのではないかって……だからあなたに会いに来たのに……」 

 娘は少しばかり眉を寄せた。
「棺桶に入って寝ているのですもの。自害されたのかと思ってしまったわ」
 唇をとがらし、頬を紅潮させた娘を目にして、伯爵の口元に自然と微笑が浮かんだ。ゆっくりと身を起こし、乱れた銀の髪に、自らの細い指をからめて通す。
「‥…わたしはいつもここで眠る。ここが一番落ち着くのだよ」

 娘は石の柩の冷やりとした感触と、柩の底に敷かれた深紅の布の下に、深く敷き詰められた土の感触を確かめ、小首を傾げた。
「わたしには、そんなに心地よい場所には思えないわ」
 娘の正直な意見に、伯爵の気持ちはほぐれた。暫しの間、すべてを忘れて彼女と談笑する。まるで昨日の出来事など夢であったかのように……。
 だが、それも長くは続かなかった。伯爵は、彼女が首まわりを隠すように、しっかりとショールを羽織っていることに気づいてしまったのだ。
「ここは、冷えるか」
「ええ」
 娘は即答した。事実娘の息は白く、細い体は闇の中で、あまりにはかなげに見える。
 伯爵は娘のショールに手を伸ばした。 彼の手が触れる寸前、娘は反射的にショールを手で抑えたが、思い直した。隠し立てする方が却って伯爵を傷つけることになるだろう。
 伯爵は娘の態度に一瞬躊躇したが、そのまま手を伸ばし彼女のくすんだ茶色のショールを軽く引いた。それだけで娘の白い喉が露になる。
 伯爵は娘からゆっくりと身を離した。 彼女の喉には昨夜の傷痕が、赤い二つの点となってはっきり残っていた。それはあたかも伯爵に断罪を求めるように、生々しく、そして痛々しかった。
「痛みは……」
 伯爵は彼女から視線を逸らしながら、重い口調で尋ねた。娘は首を振る。
「痛みはもうないわ。昨夜あなたが噛んだ時にわずかに感じただけ」
 伯爵は目を伏せた。彼女の血の味を思い出し、それを美味だと感じた己が呪わしかった。
「もう傷痕を消してしまった方が良かろう。村人に見つかれば大変なことになる」
 伯爵は長い沈黙の後で、ようやくそれだけ口にした。閉鎖的な村社会では、神の教えを尋常ではない方向に持って行きがちだ。多くの村々で、病が流行ったり農作物が不作であったりする度に、魔女狩りと称して、罪の無い女を火炙りにしている。

 人間のすることである。これまでの伯爵ならば、別段どうとも思わなかっただろうが、娘が係わってくるとなると話は別だ。
 以前娘自身が見せたあの神秘的な力を用いて、早々にこの傷痕を消してしまった方が、村人に余計な詮索をされずに済むはずである。
 だが、娘はただ曖昧なほほ笑みを浮かべただけだった。
「自分自身にはあの力は使えないの。前世の業が余程深かったのね」
「前世……?」
「輪廻転生……生物は生まれては死に、また同じ魂を抱えて新たに生まれては死んで行く。永遠にそれが続いて行くということなの。前世とは、今の私が生まれ変わる以前の私の生涯のことよ。遠い東の地では一般的に知られているわ」
 伯爵は娘が何を言っているのか一瞬理解に苦しんだ。教会では全くといっていいほどそんな教えなどしないし、むしろ邪教といわれても仕方のないような途方もない話である。
 娘は天井を仰ぎ見た。その眼差しは、暗い地下室の壁を通り越して、遥か天の彼方に向けられているようだった。
「主の声が聞こえるわけではないわ。でも感じるの。己を顧みず他者のために尽くし他者を救うこと……それがわたしの生きる意味なの」
 伯爵は何ともいえない表情で、娘の白く美しい顔を見やる。誰か別の人間と話しているように、彼には感じられたのだ。 娘は、小さく笑った。
「あなたは今、わたしのことを狂信者だと思ったでしょう」
 伯爵は反論が出来なかった。娘は彼の返事を待つことなく、白く細い両手を彼の前に差し出した。手のひらは天に向けられ、何かを掬うような形である。
「見ていて」
 娘は静かに目を閉じ、小さく祈りの言葉を発した。その直後、伯爵は目を見張った。彼女の両手から清らかな水が湧きだし、溢れて流れ落ちてゆく。
 それは信じられない光景だった。常に尋常ならざる者たちとともに、夜の世界を闊歩してきた伯爵でさえ、驚愕が全身を貫いた。彼女が以前見せた白い光は、聖職者たちの多くが纏っている、白いオーラに通ずるものがあり、あれほど強い治癒能力は見たことのない彼であっても、何とか己を納得させることが出来た。
 だが、こんな不可思議な力は目にしたことがない。
 娘はまるで伯爵の心のうちを読んだように、言葉を続けた。
「あの女の人に使った力は、特別なの。普段は薬草を煎じたものにこの水を交ぜて、病気の人に飲ませるわ」
 娘はこの奇跡の水で、村人たちの病や怪我を治してきた。煎じた薬草にわざわざ交ぜるのは、少しでも彼らの常識の範囲内で治療を行いたいからだ。
「わたしの力は、普通の人には気味の悪いものなの。だから、わたしはずっと隠してきた……。本当のことを話したのは、あなたが初めてだわ」
 娘の表情が陰りを帯びる。
 娘は、濡れた手をそっとスカートの裾で拭い、ぽつりぽつりと話し始めた。
 彼女はある下級貴族の生まれだった。ただ娘が12の時に父が濡れ衣を着せられ、冤罪により爵位を剥奪された。
 領地も失い、財も失い、それでも父と母と娘は生きることを選んだ。
 なぜならば、冤罪を受けたその日に、父母は強い癒しの力を……奇跡の水を得たからである。
「少しでも多くの人を救いたかったわ。貧しくなってから、貧しい人々の痛みが分かるようになったし、小さな子供が満足に食べることすら出来ず、死んでゆくのを見るのは辛かった……」
 最初は教会へ行った。だが、そこでは彼らは背信者の烙印を押された。聖職者でもないものが、ただの落ちぶれた元貴族が、奇跡を起こすなどありえないという理由からだった。
「実際に治癒の力を見せたら、彼らは焦ったの。聖職者である自分たちが、奇跡の一つも起こせないのは、彼らの沽券にかかわるし、教会の権威が揺らぐことにもなりかねないから……」
 娘と彼女の両親は村を追われた。詐欺師であり、狂信者であると、教会が触れ回ったのだ。
「十四の時に両親は流行病で死んだの。治癒の力とこの水は、両親の死んだその日に、わたしに受け継がれたみたい。その日から、誰かが見守っていて、わたしに未来を指し示しているような感じがしてならないから」
 娘は澄んだその目を伏せた。
「でもわたしはその日からずっと、一人ぼっちなの。誰も本当のわたしを知らないし、多分、分かってくれないと思ったから……だからずっと……」
 娘の睫から透明な滴が溢れて落ちた。伯爵は彼女の肩を抱きかけ、手を止める。
「わたしが、触れても主とやらは何も言わぬのか」

 娘はショールの端で濡れた頬を拭き、伯爵に笑いかけた。
「まあ、伯爵さま、言ったでしょう。わたしは主の声を直接聞いたことなどないわ。それに主はただ見守り導くだけ……誰かを愛することが罪になるなんておかしいわ」
 娘はまだ潤みの残る瞳で、真っすぐ伯爵のその金の瞳を見つめた。
「わたしは、出来れば、ずっとあなたの側にいられたらいいなと思うの」
 静寂が舞い降りた。
 暫しの後、伯爵は彼女へと手を伸ばした。今度は少しのためらいもなく、肩を抱き娘を引き寄せ、その耳元へ唇を寄せる。
 彼が低く何事か囁くと、娘の頬がばら色に染まった。娘は目を伏せ、彼に身を預ける。
 伯爵は優しく彼女を抱き締め、その柔らかな唇にそっと口づけした。


第 6 章

  娘は伯爵の妻となった。もちろん、式などあげてはいないが、伯爵は自分の金の指輪と対になる銀の指輪を娘に渡すことで誓いとし、娘はそれで充分満足だった。
「きれいな指輪ね。それにほら、二つを合わせると刻まれた字が読めそうよ」
 指輪に刻まれた文字は古く、教養の深い娘でも解読出来なかったが、彼女はそれほど気にしなかった。特別重要なことだとは考えなかったからだ。
 妻となった娘は、村の小さな家を出て、伯爵の城へ移り住んだ。村での生活は貧しく、その上、村人になじめずにいる娘にとっては、たとえ得体の知れない妖魔たちがうろつく城であっても、伯爵の側で過ごす方が心地よかったのだ。
 伯爵は、長い間使われていなかった礼拝堂の西側の塔に妻の部屋を設けた。そこには長い空中回廊を渡らねば行くことが出来ず、その回廊部分に様々な仕掛けを施すことで、他の魔物たちが娘にちょっかいを出せぬようにした。
 どんなに不可思議な力があるとはいえ、娘は所詮ただの人間である。そうでもしなければ、伯爵といえども、とてもではないがこの城に住まうことを許すことなど出来はしなかっただろう。
 指輪を誓いとしてから三日後に、ようやく娘は自室となるその西の小部屋に通された。
「きれいな部屋ね」
 彼女は部屋を見渡し感嘆の息を漏らした。大きな窓には、明るく品のよい柄のカーテンがかけられ、調度品は皆落ち着いた色調で統一されている。壁紙も絨毯も柔らかな色合いで、華美な部分はまるでない。
 どちらかといえば重厚で荘厳な印象のこの城内で、ここだけが春のように優しく暖かな雰囲気に満ちていた。
「どうもありがとう。とても嬉しいわ」
 素朴だが素直な感謝の言葉は、時にどんな素晴らしい美辞麗句よりも、他者の心を打つものである。 

 伯爵は何も言わずに、その重厚なマントで包み込むように娘を抱き締めた。既に二人の間には、余計な言葉など必要なくなって久しい。すべてが順調であり、怖くなるほどの幸せに満ちているように感じられるほど、日々は穏やかに過ぎてゆく。
 娘は伯爵の胸に顔を埋めたまま、この時が永遠であれば良いのにと強く思った。
 彼女の目に、深い陰りが現れる。

 やがて表情にまで現れたその暗い影に、伯爵は決して気づくことはなかった。

 伯爵は以前と比べて、狩りに出る回数を極端に減らした。なぜならば、急場の飢えをほとんど妻の血で満たしたからだ。
 妻はすでに純潔を失ってはいたが、その血は伯爵を飽きさせることなく、また、彼がこれまでに飲んだどの血よりも濃厚で美味だった。

 何より、妻には全くといっていいほど、吸血行為に対する嫌悪感も、恐怖感もない。彼女には種族の差による様々な偏見や差別など、脳裏の片隅にも置いていないようだった。
「あの方を眷属に迎え入れることは、良いことのように感じますが」
 そう何度となく図書館の主は、伯爵に進言した。吸血鬼だけではなく、彼女は、他の妖魔たちにですら、嫌悪や恐怖といった感情をあまり抱きはしなかった。
「信じられないことですが、あの方になついている魔物がいくつかおります。あの方は闇の世界でも、十分に対応出来る希有な能力をもった方です」
 図書館の主の進言が、伯爵自身を思ってのことだとは、当の伯爵も知っていた。 妻が人間で有る限り、そう遠くない未来に彼女は老い、死んでゆく。その運命は、強大な魔力を持つ彼でも、決して変えることは出来ない。
 伯爵とて、何度となく一族に引き入れることを考えた。だがその度に、これ以上この娘の身を汚し、魂を汚してまで彼女を側に置くことが、果たして本当に正しいことなのか自問自答を繰り返した。
 今まで、誰にもどんなことにも、彼が罪の意識を感じることなど、一度として無かった。しかし妻が、彼に優しさと労りを与えれば与えるだけ、伯爵の罪悪感は強まってゆく。

 そんな中で、妻は伯爵の子を身ごもった。日増しに大きくなってゆくお腹は、普通の妊婦と何ら変わるところはない。
 やがて十か月後に、城の一室で元気な男の子が生まれた。つややかなプラチナブロンドの髪は赤子にしてはふさふさとして多く、生まれた直後から、父親ゆずりの琥珀色の目を見開いて母親に笑いかけた。

 きれいに洗われ笑い声を立てる美しい子供を、母親は腕に抱いた。子供は人間の赤子のようではなかった。それは母親にもうっすら分かった。
 しかしその無垢な笑顔の愛らしさと、小さな命のぬくもりは、全てを忘れさせ愛しさだけを込み上げさせた。
 妻と生まれた子供を見に来た伯爵に、母親は優しい声をかけた。
「以前あなたはおっしゃったわね。自分は死んでいるのも同然だって。でも、あなたは死者ではないわ。見て。新しい命を生み出せるのですもの。これが何よりの証拠よ」
 伯爵はこの瞬間に、妻を一族に引き入れることを、そのことで悩み考えることを、止めた。
 それからは、以前にも増して穏やかで優しい日々が流れた。
 息子には、かつて伯爵が妻リサに名乗った偽名である『アルカード』という名がつけられた。名前の持つ響きが好きだからという、母親たっての希望からだった。
 子供は健やかに成長した。年月が経つとともに、若かったリサも落ち着きを増し、そして伯爵もまた、妻と子供に合わせるように老いていった。永遠に若い姿が保てるのにもかかわらず、あたかも人間のように、その老いはゆっくりと進んでいく。

 アルカードが十八になる頃には、伯爵は髭を蓄え威厳に満ちた、壮年の姿となっていた。鋭い眼光と銀の髪、琥珀色の瞳だけが以前と変わらない。
 リサは三十代半ばとなっていた。その容貌も声も、年齢にそぐわぬほど若々しく、品の良い美しさには、さらに磨きがかかったようですらある。
 子供であったアルカードも成長し、年齢よりもやや大人びた青年となっていた。その容姿は驚くほど伯爵の若い姿に似ていたが、父親よりもずっと眼差しは穏やかだった。身に宿る強い魔力は父親譲りだが、どうやらその性格は母親譲りであったようだ。心の内がそのまま瞳に表れているようだと、誰もがそう思わずにはいられない、そんな眼差しの持ち主だった。
「あなたも、そろそろ自分のこれからについて考えなければなりません」

 ある日、リサはアルカードを自室に呼んだ。息子の新陳代謝が急速に衰え、その白い美貌に青みが増したことに母親は気づいたのだった。
 そっと彼の手を取る。驚くほど冷たい手は、人というより死人のようだった。
「あなたはこれから長い年月を生きることになるでしょう。それは、あなた自身も、既に分かっていることだとは思いますが」

 母親と同じ食事を取っていた時まで、彼の体は成長を続けていた。だが今、その体は成長を止め、ただ恐ろしいまでの喉の乾きを定期的に訴え続けている。
 リサは全て知っていた。だからこそ、こう諭した。
「己を恥じる必要はありません。自分に誇りを持ち、その誇りに見合った生き方をなさい」
「……はい」
 アルカードは、母親の前では極めて寡黙だった。口もほとんど開かず、眼差しが真剣であるだけに、リサは彼の痛みの深さを知った。
 おそらく父親と同じように、彼の歯にも変化が訪れているのだろう。知らず知らずの内に、人間である母親に見せたくない思いが働いて、しゃべることにすら嫌悪が込み上げているのかもしれない。 アルカードが退室してから、リサは小さなため息をはいた。
「私の運命が尽きる前に、あの子が自分の道を見つけてくれれば良いのだけれど……」
 雷鳴が轟いた。激しい雨が窓を打ち付ける。
「もう、時間がないのに……」
 細い声は、次第に大きくなる雨音に、全てかき消されていった。

 リサは、城を空けることが多くなった。理由の一つは、息子が成長し全く手がかからなくなったこと、もう一つは近隣の村の多くで伝染病が流行っているせいだった。
 村人全てを死に至らしめるほど強力な力をもったこの病は、恐ろしい勢いで村から村へと移動してゆく。ついに、彼女が以前暮らしていた村でも、何人かが発病して命を落とした。
「昔、お世話になった人が死にました。同じお針子をしていた子も……。私には確実に彼らを救える手立てがあります」
 リサは伯爵にそう訴えた。そしてそのまま、かつて自分が住んでいた小さな家に赴き、再び薬草を煎じ始めた。

 伯爵は何も言わなかった。ただ護衛として下級の魔物を一匹つけただけだった。
「父上、なぜ母上を行かせたのです」

 下級といえども、魔物である。普通の人間ではとても太刀打ち出来ない強さを持つことは、アルカードも知っていた。 だが、沸き上がる不安は、おさえようがないほど膨れ上がっている。
 伯爵はただ、息子に軽い一瞥をくれただけだった。
「あれはあまり望みを言わぬ、欲の薄い女だ。……あれほど願っているのだ。かなえてやらぬ道理はない」
 声は低く抑揚がないのに、その口調には有無を言わさない響きがある。
 アルカードはきつく唇を噛み、王座に座ったままの父親に一礼してから退出した。
(何事も起こらねばいいが……)
 魔物の類いならば、リサには絶対に手を出さない。彼女が闇を統べる不死の王の后であることを知っているからだ。
 だが人間は違う。
 彼らの中には凶暴な性格のものが少なからずいる。そして、たちの悪いことに、一見して他の者と区別のつかない容姿をしているものが意外と多いのだ。
 アルカードは人間が嫌いではなかった。むしろ何度か母に連れられて行った街や村では、人の心の暖かさに触れる機会が幾度もあり、その度に好ましく思えた。
 しかしながら、性根の腐った人間というものが確かに存在することも事実だった。そしてそのような人間が、いかに始末におえないかも、目にしたことがある。
 母は人間にはない力を持っている。
 それを知っているがゆえに、彼の不安は余計に募るのであった。

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