平穏な日々は、やがて一つの転機を迎える。
その日娘は、自分の住む村の隣村に、用事があって出かけていた。娘のもう一つの仕事、薬作りのために必要な薬草を採りにいくためである。
その村の東のはずれには、薬草が沢山生息している小さな森がある。その森の所有主に、いつものようにレース編みのハンカチを御礼の意味を込めて渡し、娘は鬱蒼と生い茂る木々の中へと、分け入って行った。
既に日は落ちようとしている。午前中はお針子の仕事があり、結局こんな時間になってしまったが、娘は別段どうとも思わなかった。
(日が暮れてしまったなら、あの人に会いにいけばいいし)
既に習慣になりつつある伯爵との逢瀬を、娘はかなり楽しみにしていた。
この時代の小作人の大半がそうであるように娘もまた、貴族や王族などいわゆる特権階級に属する者たちは大嫌いだったが、なぜか伯爵だけは違った。
伯爵は知識も豊かだし、芸術への理解もあるし、何より、威厳があるのにもかかわらず決して高圧的な態度を取らない所が、一緒にいて心地良い。
また、それ以上に娘の中で、ある感情が膨らんできており、それはもう娘自身も気がつく程大きくなっている。だから余計に「会いたい」という思いは強くなる。
しかし、ただそれだけではなかった。 彼を思う気持ちとは別に、娘にとって伯爵は「同類」と思われる数少ない人たちのうちの一人だった。
たとえ彼女と正反対の所に居る人であっても……。
(私もまた、人の社会の中では生きられない……)
気を取り直し、娘が薬草を採取していると、足音がした。殺気はないのでゆっくり振り返る。
姿を現したのは森の所有主であった。彼女の後を追いかけてきたのだろう、少し急ぎ足で息を乱している。
その初老の男は、少し不安気な様子で娘に尋ねた。
「私の娘が森に茸を採りに入ったまま、もう二時間も帰らないのだが……どこかで見かけなかったかね?青いショールを肩にかけた、君と同じ年頃の子なんだが」
「いいえ、見ませんでしたが」
娘の答えに、男は少し肩を落とした。
「すまんが、見かけたらすぐに帰るように言ってくれ……」
そう言い残して彼は森の奥の方へと歩いて行く。娘の返事も待たずにだ。
彼女は少し首をかしげてから、また薬草探しの続きに取りかかった。
日が完全に落ちてしまったので、手燭の灯りだけが頼りである。
(もうそろそろ帰ろうかしら)
空には月が浮かんでいる。森に入って二時間が過ぎた頃、ようやく娘は腰を上げた。森の所有主の探していた娘には会えなかったが、普通、人は夜の森など好んで歩かないものだ。
(出会わなかったってことは、きっと家へ帰ったのだわ)
娘はそう結論づけた。小さな森であるから迷うということは考えられない。日が暮れてしまえば、家路につくのが自然だ。
ましてや若い女性なら、なおさらである。
日が暮れても、こんな暗い森をうろうろして平気なのは彼女自身くらいだろう。
(でも、念のため確認だけでもしておこうかしら)
頼まれたからには、一応責任というものもある。
娘がいろいろ思案しながら歩いていると、突如静かな森に呻きに似た鈍い声が響いた。
若い女性のものだ。そう大きな声ではないが、すぐ近くから聞こえたので、娘は薬草を入れたかごを放り出し、スカートのすそをつまんで声の聞こえた方へと全速力で駆けた。
木立の間に人影が見える。最初は一人に思えたが、近づくにつれ、それが二人であることが分かる。男が女をきつく抱きしめているので、一人に見えたのだ。 娘は息を呑んだ。
女の青いショールが月光を受けている。そして男の銀髪が、同じように光を受けて輝いていた。
男が顔を上げた。唇から鮮血がしたたり、あごをつたって落ちる。
娘はその顔を知っていた。見間違えようがない。あの、森の古城の主である伯爵だ。
娘と眼が合い、伯爵の端正な顔が驚愕に歪んだ。
(なぜ気付かなかったのだ……)
伯爵の腕がゆるみ、女がくずおれるように地面に倒れた。
時が止まったかのように、暫く二人は見つめ合ったままだったが、先に視線をそらしたのは伯爵の方だった。
娘はなおも伯爵から視線をそらさない。「殺してしまったの?」
娘の声の鋭さに、伯爵の表情に苦いものが浮かぶ。彼が弱く首を振ると、娘はほっと胸を撫で下ろした。
丁度その時、遠くから誰かを呼ぶ声がした。この森の所有主であろう。いなくなった自分の娘をまだ探しているのだ。 娘は倒れている女を見やる。白い首筋にくっきりと二つの傷跡が残り、痛々しい。
「このままでは、いけないわね……」
娘は女の横に腰を降ろすと、手を組んだ。短く主への祈りを捧げた後、血で汚れた女の首にその手をかざす。
「とりあえず、あなたはどこかへ隠れていて」
伯爵は瞠目した。娘は間違いなく彼に向かって言ったのだが、一瞬信じられなかったのだ。
暫時たたずみ、伯爵は身を翻す。それと同時に娘は手をかざしたまま、眼を伏せた。
それは非常に神秘的な光景であった。娘の体が淡い白い光に包まれ、その光は時折虹色にきらめき、陽炎のように漂う。かざした手には特に多く光が集まり、指先も手の甲も光のためにかすんで見えないほどだ。
だが永遠にも思えたその輝きは、やがて急速に萎えていった。
彼女の体から光が失われるのとほぼ同時に木立の間から初老の男が現われた。森の所有主である。倒れている女に気付くやいなや、血相を変えて駆け寄ってきた。
間違いなく彼の娘なのだろう、目を皿のようにして女性を見つめていたが、外傷がどこにもないことに気づくと、安堵し、その場にへたりこんでしまった。
娘は老いたその背をかるくなでてやる。
「大丈夫ですわ。気分を悪くなさって横になっていらしたのでしょう」
それは半分は事実で半分は嘘であった。だが初老の男には随分真実味があるように聞こえたようである。何しろ意識を取り戻した彼の娘は、何も覚えてはおらず、自分がどうしてここに倒れていたのか、全く分からなかったくらいなのだから。
寄り添って帰って行く父娘を見送り、彼らが見えなくなってから、娘は振り返った。
木立の間から伯爵が現れた。闇で染め上げたかのようなマントが、夜風にゆるくはためく。
娘が声をかけた。
「……彼女に何を?」
伯爵は答えない。
「吸血鬼なのね?」
回りくどい言い方はせず、単刀直入に問う。この地方で古くから語り継がれている闇の魔物にまつわる話を、娘もまたよく知っていた。
しかしながら、彼女の口調にきつさはない。
伯爵は娘を見つめた。彼女の明るい水色の瞳には、恐れの色が微塵もなかった。
「普通の食べ物は食べられないの?」
伯爵は眉間に深いしわをきざんだまま、首をふる。
「そう」
娘の声にはどこか納得したような響きがあり、伯爵の表情から、初めて苦いものが消えた。
「……責めぬのか」
伯爵の、低く問う口調に、娘は少し笑って答えた。
「あたしが雲か霞を食べて生きているのなら、あなたを責められたでしょうけど、生憎とそうではないから」
沈黙がおちた。少しばかり冷たい夜の風が、静かすぎるその場を軽くなでてゆく。娘がまた小さく笑った。
「でも、変よね。やっぱり人が傷ついたり、死んだりしたら辛いわ。鶏なんか平気で殺して食べるのにね」
娘の表情にはどこか自嘲的な陰りがある。それでも、あれほど衝撃的な場面を目にしたというのに、この落ち着きようは逆に異様といってもいいほどだった。
伯爵は僅かに沈黙した。
「鳥とて鳥をおもうだろう……同族であれば仕方あるまい」
瞬間、娘の表情はほころんだ。自ら、伯爵の方へ歩み寄り、血で彩られた彼の顔を両手ではさみこむ。
「あなたに生きることをやめろなんて言わない。でもお願い、殺さないで」
それから少し目を伏せる。
「大切な人を失うことはとても辛いことだし、きっと誰かが泣くわ……。それは嫌なの……」
伯爵は一瞬の間の後、頷いた。彼にしても、死に至る程、生き血を吸うというのは稀である。あまり死人が出れば、人間も警戒する。そうなれば必然的に彼の行動も制限されやすいし、徒党を組んだ人間というものは、以外に始末に負えないものだ。
故に、ほんの少しばかり妥協するだけで、彼女が笑顔を見せるというのならば、殺さない方がいいように伯爵には思えた。
今も克明に目に焼きついて離れない、彼女を包んだ白い聖なる光。一体何者なのかと問いたい気持ちが無いといえば嘘になる。だがそれ以上に彼女の心を失わなかった事の方が、今の伯爵にはより大きかった。
彼女の背に腕を回す。娘は抗わなかった。
そのままきつく抱き締める。
娘の穏やかな声が優しく響いた。
「また、夜に遊びに行くわ……」
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