小説月下の夜想曲
† 第2章 †

第 1 章
 日はとうに山の陰に沈み、辺りは闇に満ちている。
 その中を月明りだけを頼りにして歩いている若い娘がいた。質素な身なりで、長いうす茶色の髪は結い上げず、邪魔にならないように軽く結んでいるだけだ。手に持った籠には少しばかりのパンと野菜が入っているばかりで、彼女の貧しい生活を浮き彫りにしている。 森の中を歩く歩調はさすがに慣れた者のそれで、機敏ささえ感じられるが、時折立ち止まっては辺りをきょろきょろと見回す様子が、この娘の置かれている現状を如実に表わしていた。
「完全に道に迷ってしまったわね……」 
 自分を勇気づけるかのような独り言が、静まりかえった周囲に響く。 仕事が遅くなってしまって、つい「近道を……」と思ったのがそもそもの誤りだったと娘は思った。
 まだその時は日は傾いている程度であったし、二度程昼間に通ったことのある森だからと油断したのがいけなかった。
 きちんと家のある方角へ進んでいるつもりが、いつまでたっても森を抜けず、もちろん家も見えず、気付いた時には、かすかに分かる程度であった道すら目の前から消えていた。いや、彼女自身が道から逸れてしまっていた。
「まずいわ……」
 夜の闇自体には恐怖は感じないが、狼にしろ悪い人間にしろ、危険なものは夜に出歩く事が多いものだ。
 右も左も分からぬまま立ち尽くす。……と、不意に辺りに薄いもやがかかった。視界が白く濁る。
 何事かと思い、目をこらすと、背後の森に突如として古城が現われていた。月を背にしてそびえているため、逆光になり細部までは分からないが、そのシルエットだけ見ても、大きくどっしりとした造りは見る者に否応なく威圧感を与える。
(さっきまでは確かに何も無かったのに……)
 下部は、もやのために白く霞んでよくは見えないが、おそらく彼女自身がついさっき歩いてきた方角に、その城はそびえているはずだ。
 すなわち彼女はその城の内部を通ってきたことにならなければおかしいのだが、どう考えても緑の木々の中を歩いた記憶はあっても、石造りの建造物の中を通った記憶は無い。
 夢でも見ているのだろうかと小首をかしげて、その城の方へと歩み出した刹那――。
「若い娘が、このような時間にこのような場所を歩くものではない」
 城のある方、もやの中から一人の男が現われた。黒衣にすっぽりと身を包んでいる。銀糸の長い髪が月光を受け、まばゆいまでに輝いており、その白い輝きと、羽織っている真っ黒なマントの裏地の真紅が対照的で、夜目にも鮮やかだ。
 年の頃は二十代半ばといったところだろうか。その割には表情にしろ雰囲気にしろ、その年代にしては落ち着いた印象を受ける。非常に長身で細身だが脆弱さは微塵もなく、むしろ堂々とした立派な体躯の持ち主であるとさえ錯覚してしまうほどだ。
 彼の極めて整った容貌が大層娘の目をひいたが、どこかしら他を拒絶したような冷たいまなざしは、男に近寄り難い印象を与える。
 彼は娘の四歩手前で足をとめた。
 近くで見ると、男の白い肌がよりいっそう透き通って見える。いや白を通りこして蒼くさえある。
 容姿も雰囲気も尋常ならざるこの男に対して、娘はそのようなことなど意にも解していないように軽く会釈した。
「すみません。道に迷ってしまったのです」
 男の身なりからすれば貴族であることは一目瞭然である。胸元のレースは極上の絹だし、そのレースのひだを優雅に留めているブローチは吸い込まれそうなほどの赤を湛えたルビーで、娘の暮らしからすればため息がもれるばかりの代物だ。
 それでいながら娘の口調は、平民特有の貴族に対する畏怖にも似たへりくだった様子も、恐れおののき、ただひたすらに許しを請うような惨めな様子も全くない。
 むしろ彼を見つめるまなざしには、同胞を見つけたような、そんな親しみさえこもっている。
 貴族であれば、このような卑しい身分の者(貴族達から見れば、領地の小作人を含め貧しい者たちは皆、卑しい身分の者としか映らなかった)の礼を欠いた口調に、激怒して首でも撥ねかねないだろうが、男はどうやら普通の貴族とは違うようだった。
 わずかに眉をあげただけで、別段怒る様子もなく、あごをしゃくって娘の後方を示す。
 娘が振り返るとそこに、森を二つに分かつように道が現われていた。先刻までは確かに木々がうっそうと生い茂るだけであったのに……。
(まあ…。全くなんて不思議なのかしら)「その道をたどれば村へ帰ることができよう」
 男は既にもやの中にいた。表情は見えず、ただ、耳に心地よい低音の声だけが聞こえてくる。
「二度と夜にこの森を歩かぬことだ……」 娘は「ご親切にありがとう」ともやの中に向かって大きく手を振った。それから思い直したように手に持ったかごを地面に置くと、服のすそを軽くつまんで一礼する。
 それはあたかも貴婦人のごとく、優雅で美しく、そして気品に満ちあふれていた。  

 男は森の奥へと消える娘の背中をじっと見つめていた。彼にとっては白いもやも、深い夜の闇も何の妨げにもならない。 娘が完全に見えなくなると、彼にしては至極めずらしく小さく息を吐いて、城へときびすを返す。
 もやの中に浮かび上がる古城は黒一色で、そのたたずまいはどこまでも重く暗い。その城の城門をくぐりながら、男は先刻の不可思議な娘のことを思い起こしていた。
 一目で貧しい農民の娘と分かる。髪も高く結い上げず下ろしているし、服装も仕草もまさしく身分の低い者のそれだ。しかしながら十代後半の若々しい顔は美しく、不思議と気品さえ漂う。        
  
男の流麗な眉が軽くひそめられた。

 農民の娘にしては品がある、くらいならば、彼もここまで心に留めなかっただろう。
 彼がいぶかしく感じたのは、どうしてこの城の前までたどり着けたのかということだ。この城は絶対に人間には見えぬはずであるし、近づくことはおろか、この城のある方角へ足を向けることすら困難なはずである。
 そしてそれは心の清い者、すなわち彼にとって都合の悪い者にほど効果がある。そのように外ならぬ男自身が術を施したのだ。
 なのに娘はたどり着いた。
 彼が最も忌む聖なる者の匂いを漂わせて。
 そこまで思いだして彼は意外なことに気づいた。
 例え飢えていなかったとはいえ、彼があの無防備な娘に全く何もせず、帰る道を指し示してしまったことに……。
 表情に若干険しさが増す。しかしそれも長くは続かず、男は軽く頭を振って考えるのをやめた。
(どうせもう二度と会うこともあるまい……)
 たまたま今回は、奇跡的にもたどり着けたが、そう何度も偶然が重なるはずがない。
 そう男は結論づけた。

  翌日、日が落ちて男が城を出ようとすると人の気配がした。前例の無いことなので、いささか不審に思い、気配のある方向へ目をやって彼は仰天した。
 昨日の娘が、城の前で落ち着きなくうろうろとしているのだ。そして、男の姿に気づくと、彼女はぱっと顔を輝かせ、満面の笑みを浮かべて走り寄ってきた。「まあ、嬉しいわ。またお会いしたいと思ってたんです。昨夜はどうもありがとうございました」
 男は絶句した。
 もちろん表情には全く出さない。しかし内心の動揺はかなりのものだった。
(なぜ、二度も……)
 絶対にあってはならないことである。 偶然というならば可能性としては考えられないこともない。昨夜の件などはそれだろう。
 だが今夜は違う。明らかにこの娘はここに来ようとして、そして本当にたどり着けたのだ。
 その問題の娘はいそいそと籠から何かを取り出しているところだった。
「昨日ちゃんと家に帰れたお礼がしたくて……。気に入っていただけるかしら」
 娘が籠から取り出し広げたのはレース編みのテーブルクロスだった。目の細かいかなり上等なものである。
 娘の暮らしぶりから見ても、簡単に手に入るものでは決してない。そんな男の心の内を読み取ったか、娘は胸を張った。
「まあ、別にやましいことをして手に入れたものではありませんわ。私お針子もしてるんですけど、そのへんのあまった糸をちょっとかっぱらって、趣味で編んだものなんです。親方に知れれば大変ですけど、みんな上手い具合に隠れてしてますから」
 娘の口調は完全に下民のそれで、品もなにもない。だのに男には、貴族の娘が汚い身なりをして、わざと悪い言葉を遣って話しているようにしか聞こえなかった。 
 ごく自然と笑みが浮かぶ。
 それほど、目の前で目を輝かせ、いきいきとしゃべっているこの娘からは、強く表面には表れないが、気品も優雅さも持っているように感じられる。
(不思議な娘だ……)
 男は一応貴族の称号を得てはいたが、それも随分と昔の話で、人の世界とは、食事は別としても、あまりかかわらずに暮らしてきた。だがら、礼儀も何もないそんな娘の口調にも、腹立たしいとは思わず、面白いと同時に興味すら抱いた。 
 彼の知る女たちは、総じて必要以上におとなしすぎるか、けたたましいか、または相手の機嫌ばかり 取ろうとするか、高飛車か、そんなくだらない女ばかりだ。 
 だがこの娘は相手の目をしっかりと見て、こんなに楽しげに話し、表情をくるくると変える。
 非常に新鮮だった。
 彼の最も嫌う聖なる者がもつ独特の匂いも、この娘のものはなぜか全く気にならない。
 その娘は少し期待を込めてテーブルクロスを手渡してきた。受け取ったそれの手触りはなめらかで、娘の言葉を信ずるなら、彼女の針子としての腕はかなりのものである。
 男はしかし、それを彼女へと返そうとした。
「……礼をもらうほど、たいしたことをしたつもりはない」
 途端、娘はむうっと頬を膨らます。
「まあ!何事もなくちゃーんと家に帰れて、今日も無事にお勤めできて、神様にお祈りできて、きちんと生きているってことはとっても大切なことですわ」
 そして不意に表情を改める。
「私のような薄汚い小娘に、あなたは親切にしてくださった。だからお礼がしたいと思ったのです」
 娘の真摯な眼差しに男は一瞬目を見張った。先程までの幼くさえ見える言動とは全く異なる、大人びた口調だ。
 男はしばし沈黙したのち、簡単な礼を言って、彼女の編んだテーブルクロスを受け取った。
 娘の顔に、また、子供のようないたずらっぽい笑顔が広がる。
「あなたはいい方ね。あなたは、私の身なりが貧相なのも、とても身分が低いことも、そんなに気に止めてないみたい。あなたみたいな貴族の人は初めてだわ」
 彼女はまるで歌うように、その鈴やかな澄んだ声でそう言った。
 男の暗い光を湛えた瞳に、一瞬だが感情の影がよぎる。
 娘はそれには気づかず、そのままこの地方の古い民謡を小さく唄って、くるりとその場で回った。少し汚れた、若葉色のスカートがふんわりと広がって、絹のドレスのように美しい。
「今日はお礼を受け取って下さってありがとう。……ええと、男爵様?子爵様?それとも侯爵様?」
「……伯爵だ」
 男の短い答えに娘は満足気に頷く。
「では伯爵さま。お名前を伺ってよろしいかしら」
 伯爵は一瞬返答に窮した。彼の名はこの長い年月の間にすっかり有名になっており、それも悪名の方で、そのまま娘に真実の名を告げるのは、いささかはばかられた。
 そこでとっさに、自分の名のつづりを逆から読んだ名を伯爵は娘に教えた。それは彼の持つ偽名の内の、最も気に入っていたものの一つである。
「きれいな名前ね。あなたによく似合ってる」
 娘は笑って、お返しにと彼女自身の名を伯爵に告げた。ごく短い飾り気のない名であったが、不思議と娘によく合っていた。 
「また時々、お会いに来てよろしいですか? あなたとお話しするのはとても楽しいから」
「……勝手にするといい」
 娘は彼の答えを、どうやら肯定と受け取ったらしい。
「明日も早く仕事が終わったら、ここへ来ますわ」
 言うだけ言って、そのまま弾むような足取りで森の奥へと帰って行く。
 一人残された伯爵は言葉もなく、ただ娘が消えた方を眺めていた。
 先程の言葉で、あの娘がかなり貴族社会に詳しいことが推測できる。おそらくは、あの物腰からしても、きちんとした教養もたしなみも身につけられる環境で育ったはずだ。
 だのに今は、あのような貧しいなりをしている。一体どうしてなのか……。
 そこまで考えて伯爵は昨夜同様、かるく頭を振った。
(なぜ、あの娘のことばかり考えねばならん)
 今宵は少しばかり喉が乾いている。里におり喉をうるおそうとした矢先に、あの娘が現れ、手順が狂ってしまった。
(今から村へ出向くか……)
 まだ深夜までは十分に間がある。仕事帰りの娘たちが田舎道を一人で歩いている可能性もなくはない。
 歩き出しかけ、その時になってようやく伯爵は気づいた。
 つい先程まで、最も手頃な獲物がいたことを。そして、彼女をそのまま帰してしまったことに……。


第 2 章

 娘はそれから、たびたび城を訪れるようになった。
 伯爵が飢えを感じている時も、かまわずやって来る。彼が何者なのか知らないのだから仕方がないことだが、そのような日は、伯爵は沸き上がる恐ろしい衝動を押さえることに、全神経を集中させねばならなかった。
 彼自身、信じられないことだが、この娘にだけはどうしても手が出せずにいた。 娘は彼を恐れることも蔑むことも、また媚びを売ることもなく、くったくなく笑いかけ、その澄んだ声で本当に楽しげに話す。
 それが全て失われるというのはどうしても耐え難かった。それ故、必然的に、飢えを感じている日は、娘を早めに帰らせた。
 逆にそうでない日は、大いに娘と語り合った。
 彼女は教養が深く、音楽にも絵にも興味を示し、言葉には才気があふれ、そしてあたたかさがあった。
 初めは城の前で立ち話をする程度だったが、親しくなるにつれ、城の中に招いて深夜になるまで、芸術や文学について語り合うことが多くなった。
 もちろん彼の城の中には、清らかな乙女には危険すぎたり、刺激が強すぎたりして、見せられない箇所も多くあったが、娘は決して余計な詮索はしなかった。彼の書斎や巨大な書庫を好み、そこで本を読み耽ることもあった。
 その日も、娘は一通り絵画について、色彩がどうだとか、構図的におもしろいだとかそんなことを伯爵と語り合った。そのあと、書庫へ赴き、古く分厚い難解そうな哲学書を引っ張り出して、本の世界へ没頭していく。
 このような難しい書物も当然読むことが出来る上に、文字もまた、美しい筆跡できちんと書くことができる。さらにあまりに知識が深いので、とうとう伯爵は年はいくつかと聞いてみた。
「十七よ。私、そんなに老けて見えるのかしら」
 わざとらしくしかめ面をつくって、首をかしげてみせる。なぜか微笑ましく、軽く笑みを浮かべながらも、伯爵は少々驚いていた。
 十七といえば、結婚をして子供がいてもおかしくない年頃だが、もう少し上を予想していた。
 ただ年齢を聞けば、なるほどと思われることも少なくない。好奇心が旺盛なのも、素直に感情を表に出すのも、この年頃ならば考えられなくもないからだ。
(もう五年もすれば……)
 少女らしさはずっとなりをひそめ、少し落ち着いた、誰もが魅かれる、しっとりとした大人の女性へと変わっているだろう。
 そうなれば他の男どもが放っておくはずがない。
「何もかも、お話しにならればよろしいものを」
 書物を小脇に抱え、伯爵の側で控えるようにたたずんでいた老人が、そう独り言のようにつぶやいた。勿論、伯爵にわざと聞かせるために言ったことに間違いない。
 伯爵は渋面のまま、老人の方へと向き直る。
「……おまえが口を出すことではない」「これは失礼を。年寄りの冷や水でしたな」
 伯爵は鼻を鳴らした。姿こそ老人だが、年月を重ねているというなら伯爵の方が遥かに上である。
 その書庫の主はそんな伯爵を尻目にさっさと娘の方へ向かうと、彼女のために本を探してやり始めた。芸術という分野では伯爵とおおいに語らう娘であったが、こと本のこととなると、誰よりもここに詳しい老人と話が合うようである。
 伯爵は憮然と、一緒になって本を探している二人を見ていたが、そんなに悪い気分でもなかった。
 ゆったりと長椅子に腰を下ろし、軽く足を組む。暫くすると、目当ての本を見つけた娘が、重そうな本を大事そうに抱えて、ちょこんと彼の隣に腰を下ろした。 
 最近は大抵こんな調子だった。娘は伯爵のすぐ側に常にいる。いつのまにかそれが日常となりつつあり、伯爵は満足感とともに、なぜか恐ろしい焦燥感に囚われることが多くなった。
 いつかこの穏やかな関係が全て失われてしまうのではないか……所詮この「時」は永遠ではないのだと思い知らされるような、そんな気がしてならなかった。
 自らがかりそめの時を過ごしているが故に……。

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