サザラの右目 ヴァリアの牙

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  忘れ去られし吟遊詩人の詩

 天に飛人(ひじん)あり
 地に魔人(まじん)あり
 飛人、翼を持ちて空を駆け
 魔人、妖力を持ちて地をならす
 ある時、五人の姫君が天から舞い降り地に落ちて
 五人の王子と結ばれる
 五人の飛人と五人の魔人
 間に生まれし五人の子ども
 何の力も受け継がず、哀れで弱き小さな子ども
 これが我々『人間』の
 この世の始めの物語




  ラゴ族の村は、夜も明けぬうちから騒然としていた。族長エンゼが、ついに長の座を長子に譲るというのだ。
「『儀式』は太陽が真上に来たときにというが……」
 長老が呟くと、ラゴ族の男も女も一様に空を仰いだ。
 大陸の北東を、うねるように聳えるゲゼリア山脈の麓にこの村はある。旅人は滅多に訪れず、町と町とを結ぶ街道からも離れ、木々と岩と山々の間で、人々はまるで隠れるようにひっそりと暮らしてきた。
 その静かな村が落ち着きを失っている。
 濁った空からは雪混じりの雨がばらばらと降り注ぎ、風は人々の肌を鋭く刺した。
「何事も無く済めばいいが」と誰かがいうと、別の誰かが「必ず失敗するだろう]と吐き捨てる。
 女たちは時が近づくにつれ、軒先を離れ、子とともに土壁の家の中へ閉じこもり、男たちは濡れるのも凍えるのもかまわず、族長の家を二重に取り囲んだ。
 二百人ばかりの村人全てが、『儀式』の成り行きを息を潜めて待つ中、渦中にいる族長エンゼの娘レイスは、弛緩した体を石の寝台に横たえ、刻一刻と迫りくる『その時』に抗うべく孤独な戦いを続けていた。
「父上、おやめください。このままでは村の者の意に反する長が生まれてしまいます」
 意志に反して声は強さを得ず、レイスは、言いようのないもどかしさの中に居た。彼女の体中にどんよりと溜まる不快な気怠さの意味するところを考えれば、おのずと答えは出てくる。すなわち、儀式に先んじて口にした木の実が、レイスの知識外の効果をもたらしているのだ。
「脅えているのか、レイス」
 のぞき込む男の顔には深い皺が刻まれている。その皺に埋もれた隻眼が、不可思議な光を帯びて見え、レイスは父の眼差しに狂気を感じ取った。 
「恐れのある長は侮られるぞ。お前も十七になり、成人したのだ。村を纏(まと)める義務がある」
「わたしは……」
 発した声はまたも弱く、力を得ない。レイスは拳を握りしめたかった。だが、指先はもとより手首にまで、彼女の意志は届かない。族長エンゼはレイスの表情に何を見たのか、慈愛にも取れる微笑を浮かべた。
「案ずることはない。『儀式』さえ済めば村の者も皆、おまえを讃え崇めるだろう」
「わたしには、そうは思えません」
 声が重い。喉を大きな手で押さえつけられているような感覚が、少しずつレイス自身を圧迫する。それでもレイスは声を出すことをやめなかった。止めてしまえば、言葉すら失うのではないか、そんな恐怖が胸の奥の方から沸き上がってくるのだ。
「父上は間違っておられる。わたしには村を纏める資格などありません」
 強情も大概にしろと諌めるように、エンゼは眉間に皺を寄せた。
「ようは『儀式』を回避したいのだな? なに、恐れることなど何もない。ダーザの実で痛みも感じぬ。その上、十も数えぬうちに終わってしまう。簡単なことだ」
 エンゼは懐から深紅の包みを取り出した。中から小さな球体を取り出し、手のひらの上で転がす。
「そうだ。簡単なことなのだ。ただ、おまえの右目をえぐり出し、代わりにこれを埋め込むだけなのだからな」
 言葉がレイスの体を突き刺した。動悸が瞬時に激しくなる。息苦しさが込み上げ、視点を定められず、焦燥感が胃の中で暴れ回った。
 父が右目に眼帯をしている理由を、レイスはこの時初めて知った。
「父上……」
 身を起こし、この忌まわしい場所から逃げ出したいとレイスは痛烈に願った。だが汗ばかりが流れ落ち、体は鉛のように重く、腕すら持ち上げることができない。
(誰もわたしに『儀式』の内容を教えてはくれなかった)
 村の人々は族長である父に畏怖の念を抱いている。それは、代々の長たちが見えるはずのない遠き未来を、見えるはずのない右目で『見る』ことが出来たからだ。旱魃(かんばつ)も、洪水も、人の生き死にまですべてを……。
(父は、最初から箝口令をしいていたのだ)
 レイスは唇をかんだ。震えが歯を鳴らした。石の寝台の周囲を一定の速度でぐるぐると廻る父が殊更(ことさら)異様に見えた。
「レイスよ、確かに異物を入れるのは抵抗があるだろう。だが、それもほんの少しの間なのだ。すぐに慣れる」
 愛おしさの溢れる眼差しの先に娘はいなかった。娘の右目に入れようとしている球体だけが彼の歪んだ愛情を一身に受けている。
「おまえはこれで、晴れて、ラゴの正式な族長となり得るのだ」
「女では族長になれません」
 震えを抑え、出せる限りの力を振り絞り、村の者たちの最大の懸念をあえてレイスは口にした。停止しかけた思考をむりやり引き戻し、父が他の優秀な若者に後を託せばと一縷(いちる)の望みをかけた。だが、父の意志は揺らぎもせず、むしろ激高した。
「いつ、わしが、おまえを女扱いした……粉の挽き方を教えたか? それとも糸の紡ぎ方を教えたか?」
 落ち窪んだ眼窩の奥から、左目が転げ落ちてくるのではないか、それほどまでに見開かれたエンゼの眼に、レイスはおののき、恐怖に竦んだ。
「‥…剣術と、魔術を……学びました」
「そうだ。剣と魔術……おまえは今年成人した誰よりも優れた剣の使い手となった。……尤(もっと)も魔術の方は大してものにはならなかったがな」
 エンゼは徐(おもむ)ろに足をとめ、何もない天井を見上げた。
「時が来たぞ、レイス」
 抑揚の無い声がレイスの耳を殴りつける。やめてくださいと声に出したはずが、ひゅうひゅうとかすれた音が喉から漏れただけだった。張り付くような乾きを訴える喉に水を注ぐ代わりに、エンゼは堅い布を乱暴にレイスの口に押し入れた。
 皺にまみれた黒い手がレイスに伸び、堅く瞑った瞼をこじ開ける。
 レイスは布を噛み締めた。痛みは無くとも、感覚までは奪われていない。それが、レイスに声無き悲鳴を上げさせ続けた。
 左目が赤色を見た。軟体動物のように動く指も見た。かつて自分の中にあった丸いものも見た。そして、これから埋め込まれるものも――。
「さあ、レイス、これでおまえも……」
 何かが右の眼窩に入ってきた。入ったと意識したその瞬間に痛みがレイスを貫いた。例えようのない痛みが右目の表面から、頭のずっと奥のほうにまで、ずるずると根を這わすように伸びて行く。
 突き刺すような痛みに顔を歪めるレイスを覗き込み、エンゼは愉悦の極みに達していた。
「成功だ。見事に融合している……」
 これで誰にも何も言わせぬと、低い声が呪文のように何度も繰り返している。
(助けて、誰か)
 レイスの左目から涙が落ちた。すぐさまこの痛みを取り去ってほしかった。
(シャイアス……)
 幼馴染みの少年の綺麗な顔が、レイスの脳裏を一瞬駆けた。
「ああレイスよ、かわいそうに。安心するがいい、女のように涙を流すのもこれで最後だ」
 エンゼの握りしめた椀には、どす黒い液体が入っている。
(この上、何をするの……)
 再び息が上がった。痛みのためだけではなく、額から冷たい汗が流れ落ちた。
「さあ、これをお飲み、レイス。おまえの弱い女の体を、長にふさわしい立派な男の体に変えてくれる魔法の薬だ」
(いやだ……いやだ……いやだ!) 
 口に含ませられた布が取り除かれる。節槫立ったエンゼの指と汚い椀が、レイスの唇に近づいてくる。吐き気を催す異臭が、鼻をついた。
「おやめください、父上」
 叫びと同時に反射的に、椀を持つ皺まみれの手を、屈む老体を、力の限り払いのけた。
 レイスの手が父の体を捕らえた。動かぬはずの両腕が椀を割り、エンゼの腕を薙ぎ払い、体を宙へと舞わせる。老人の体は、木切れのように吹き飛び、向かいの壁へと激突した。
(そんな)
 父の顔が真紅に染まった。白い衣服もすぐに同じ朱色が染みた。じわじわと赤色が広がる中、複数の足音が扉の向こうで止まり、鍵を壊す音とともに男たちが間をおかず侵入してきた。激しい物音が、彼らを呼んだのだろう。先頭に立つ男は、父エンゼの実弟だった。
「『儀式』は失敗だ」
 叔父も、彼の後に続く村の男たちも、皆、レイスの顔を食い入るように見つめ、そしてある者は怯え、ある者は視線を逸らし、またある者は敵意を剥き出しにした。冷静なままレイスに向き合ったのは叔父ひとりだった。
「レイスは『眼』に負けたのだ」
 叔父の声が彼方で聞こえる。
 レイスは震える手で、痛む右目に触れた。右目から頬にかけて幾筋ものみみず腫れが蔦のように肌を覆っている。蔦の中心にある瞼は酷く腫れ上がり完全に閉じていた。
(だが、見える……)
 人形のように転がる父も、距離を取り、ひそひそと話し合う男たちも、『儀式』の前と同様に、いやむしろ、よりはっきりと見てとれる。
「女だからだ」
 一人の男が吐き捨てるように言った。
「男にしか資格が無いのを、その掟(おきて)をエンゼが破ったからだ」
 罵りの言葉が彼らの口から次々とこぼれ、やがて一人が気づいた。
「エンゼはどこだ」
 レイスは反射的に壁際を見た。そこは侵入者からは死角になっている。
「まさか」
 叔父アズグはレイスの目線を追い、視線の先にかつて兄だったものが無造作に転がっているのをとらえた。
「もう、一人殺している」
 叔父が剣を引き抜くと、倣うように男たちは次々に剣を抜いた。彼らの瞳が剣呑な光を帯びる。
「わ……わたしは殺してない」
 声が裏返った。右目の痛みが激しく、レイスは腫れを隠すように顔の右側に両手を押し当てた。
「腕が動いた……んだ」
 枯木のように吹き飛ぶ父の姿が脳裏をかすめた。
「ほ、本当に『儀式』は失敗したのですか」
 聞き覚えのある声にレイスは顔を上げた。
「シャイアス」
 兄妹のように育ったシャイアスが剣の林をかき分けるようにして現れた。
「ぼくにはいつものレイシアのように」
「惑わされるな」
 アズグが全てを言わせなかった。
「レイスは死んだのだ。『眼』は騙る。気をつけろ」
 剣の刃先がレイスの右目をゆっくりと指し示す。急激に喉を締め付けられたような感覚と同時に、歯がかたかたと鳴った。
(死にたくない……助けてシャイアス……)
 レイスは緩慢な動きで石の寝台から降りた。
「レイシア!」
 村でただ一人、レイスの本当の名を呼んでくれる幼馴染みは、屈強な男たちに両脇を抱えられ、有無をいわさず部屋の外へと連れ出されてゆく。
「相手は化け物だ。いや、むしろ魔物といったほうがいい。手加減などすればこっちがやられるぞ」
 アズグの声と同時に、複数の男が剣を振り上げ、レイスに襲い掛かった。中にはレイスとともに剣を学んだ同い年の若者もいた。
 意味のとれぬ言葉を、レイスは悲鳴のようにわめき散らし、手元にあった砕けた椀のかけらを投げ付けた。木製の椀の鋭い切っ先が、襲いくる一人の喉に向かって真っ直ぐに飛ぶ。声も上げず頽れたのは、共に狩りをした仲間の一人だった。
 レイスは無我夢中で窓へとよじ登った。人一人が何とか抜け出せるほどの大きさしかない窓は、硝子を嵌(は)めたものではなく、板で開閉する仕組みのものだ。当然ながら今は堅く閉じられている。
 剣が足元をかすめた。
(死にたくない)
 邪魔な板は素手で砕いた。乾燥しきったナンのように板は簡単に割れた。
 家の外に転がり出ると、残っていた男たちは驚いて剣を構え、そのまま呆然とレイスに見入った。浮かぶ表情はアズグたちにそっくり倣(なら)っている。
 レイスは荒い息の中、己が頬に触れた。みみず腫れは顔全体を覆おうとしていた。
 彼女は獣のように唸った。
 最も近くに突っ立っていた少年に駆け寄り、握っていた剣を鞘ごと奪う。
「レイスを殺せ。その女は『眼』に負けたぞ。族長も、スールも奴に殺された」
(わたしは何もしていない)
 襲いくるのは剣だけではなかった。農具や火掻き棒までが、レイスを打ちつけ、切り裂くために振り回された。
(悪くない……わたしは何も悪くない……自分を守るために仕方なかったんだ)
 様々な武器がレイスの周囲で乱舞したが、全てが彼女の体をかすめることなく空を切った。化け物だと男たちが叫んでいる。そうかもしれないとレイスは思い始めていた。
(見える)
 向けられた武器は、剣でも石でも、全てが、ごくゆっくりと軌跡を描きながら動いていた。かわすのは造作のないことだった。
 家々を抜け、裸足のまま村から森へと駆け抜ける。男たちは執拗に追ってきた。右目の奥で耐え難いほどに苦痛が肥大していく。
(足が……)
 息が上がった。もつれた足が、レイスの体を何度も地面に打ちすえた。その度に、男たちとの距離は縮まった。
(シャイアス、どうしてわたしに何も知らせてくれなかったの)
 転がるように走り抜けると、やがて森が切れた。彼方に茶色く濁った川面が見える。
(橋を渡れば…)
 ラゴの村と外の世界を分かつのは、女神イシューが流した涙と讃えられるハスガ川だった。そこには石と木で作られた粗末な橋が架かり、ラゴ族の女たちは皆、この橋を渡ることを禁じられていた。男たちと獲物を追って何度となく森を駆けたレイスですら、橋の袂までしか行ったことはない。しかし、その場所は忘れるはずはなかった。
 だからこそレイスは川縁を凝視し、周囲を見渡した。
(そんな)
 橋は無かった。橋の土台があったはずの川岸は、増水した水の下に消え、手製の橋桁は痕跡すら残さぬまま消え去っていた。レイスの目の前にあるのは、昨日からの雨交じりの雪で水を増し荒れ狂う、ハスガの流れだけだった。
 一時止んでいた雪が再び空を舞い始める。途方に暮れ、振り返ったレイスが見たのは、村を覆う広大で深い森と、そこから現れる一人の男の姿だった。
「もう逃げられぬぞ、レイス」
 追っ手は彼一人のようだった。
「叔父上……」
 息一つ乱していないアズグが、ゆっくりと剣を抜こうとしている。逃げ場はなかった。背後にあるのは決して渡ることの出来ない濁流だけだ。
(師匠……)
 初めて剣の手ほどきを受けたのは、レイスが四つの時だった。以来、何度となくアズグに挑み、そしてその都度瞬時に敗れた。一年前、一人息子を失って以来、アズグが剣を握ることはなかったが、それでもラゴの村でアズグ以上の猛者はいないのだ。
 レイスは剣を固く握り締めた。アズグに真っ向から対峙すると、恐れが込み上げた。
「わたしはレイシアのままです。何にも心を奪われていない」
 訴えても無意味なことはすぐに分かった。アズグが剣を上段に構えている。
「レイスよ……わしの最も優れた弟子よ」
 凍るような外気が手の感覚を鈍らせ、レイスは何度となく柄を握り返した。手合わせの時とは明らかに異なる強い殺気が、アズグの全身からほとばしっている。
「悪く思うな。悪しき慣習は断たねばならん」
(今、なんて)
 考える余裕はすぐさま奪われた。鋭い切っ先が雨のようにレイスに降り注ぐ。動きは見えたが、右目の痛みと疲労が、体の動きを鈍らせた。
 二の腕を剣がかすめ、血が袖を赤く濡らす。
「その右目、見えているな」
 アズグの形相が苦いものに変わる。腫れで完全に塞がったはずの右目は、レイスに死角を与えなかった。むしろ視界は広がり、本来なら到底目で追えぬはずのアズグの剣跡がはっきり見てとれる。
 だからかすり傷で済んだのだ。
(師は本気だ)
 雪が顔に当たる。世界が白く濁る。アズグに追いついた男たちが遠巻きに様子を伺っている姿が、どこか別の場所の光景のようにレイスには思えた。
 アズグはレイスを睨み据え、しばし動きを止めた。何か思索しているようだったが、隙が全く無いためにレイスは動くことを躊躇した。
 それが、誤りだった。
 不意にアズグは、右手に剣を構えたまま、左手で印を結び始めた。唇が細かく動いている。
(呪文)
 気づいた時には既に遅かった。繰り出された左手から爆風が溢れ、レイスを直撃した。
 致命傷を与えるような強力な魔術では無論ない。だが、吹き飛んだレイスの体は、宙に放り出され、そのままごうごうと唸りを上げるハスガ川へと落下していく。
「おまえが女でなければ」
 アズグの声が聞こえた気がした。
 真下には濁流が畝っている。増水したハスガ川は、かつてないほどの激流となっていた。
(シャイアス……助け……)
 飛沫がレイスの顔を打った。


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